三つの寺

沿革掲載の三田評論表紙

三つの寺-善福寺・常光寺・竜源寺-

慶應義塾発行
三田評論 1975年4月号 P52~P54 (抜粋)

富田正文(慶應通信社社長・本塾評議員)著

裏表紙

明治七年五月に、福澤先生の母お順がなくなったとき、これを葬ってその傍らに福澤氏記念之碑を建てたのが古川端の竜源寺である。後に墓も碑も常光寺内の墓地に移された。

古川橋と三の橋のほぼ半ばほどの、川の右岸にある寺で、むかしは豊岡町、現在は三田五丁目というところで、三田ハウスという大きなマンションの南隣にある。

元来、臨済宗の禅寺で、奥平家累代の厚い帰依を受けていて、藩士の墓が多かったという。明治二年頃この寺に慶應義塾の分塾が置かれたのも、中津藩との関係が深かったからであろう。

元の名を竜翔院といったが、延享三年になくなった奥平昌成(まさしげ)の法謚竜源院殿徳翁道見大居士に因んで竜源寺と改めたといわれている。昌成は二歳で宇都宮九万石を襲封し、一度丹後宮津へ転封され、更に中津十万石に転封された人で、奥平家中津藩最初の殿様であった。参禅が好きでこの寺の住職と特に親しかったという。

ところが黒屋直房著『中津藩史』を見ると、昌成の父昌章(まさあきら)は五島淡路守盛勝の次男に生まれ奥平家の養子となった人で、延宝六年に実父のため万年山松岩寺という寺を建立し「江戸三田竜源寺伽山和尚を招じて開山とす」と記されている。

昌成の法謚に先だつこと六十余年前である。果たして寺の名が先か法謚が先か、にわかに決し兼ねる。

この寺も戦後の激変で、昔日の俤とはまったく一変した姿になってしまった。

著者:富田正文氏より龍源寺に宛てた手紙

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