慶應義塾百年史

慶應義塾百年史(上巻)の中に龍源寺の記載がありますので、
抜粋してご紹介致します。

昭和三十三年(一九五八)十一月八日発行
慶應義塾百年史 上巻
編集兼発行人:
東京都港区芝三田二丁目二番地 慶応義塾
制作:
東京都港区芝三田綱町一番地 慶應通信株式会社

第二章 近代教育の先駆
第二節 洋書の輸入と近代教育

P295 13行目 ~ P297 4行目

第九項に抜刀に関する規定があるが、このような規則が設けられていることは、なお廃刀の習慣のできていないことを示すものである。しかし「何等の事故有とも」と強調していることは、廃刀の方向に向かいつつあることを暗示するもののようである。
福沢および義塾の廃刀については、『福沢諭吉伝』に詳細にしるされている。福沢は慶應三年(一八六七)秋ごろには、運動のために使用する居合刀だけを残して、すべての刀剣を売り払ってしまい、刀を馬鹿メートルと称して、その長大なのをあざわらい、かれ自身はほんの印までに刀を差していたにすぎず、廃刀をしたのほ明治元年の五-六月ごろといわれている。福沢の強い廃刀論に影響されて、塾中にもおいおい廃刀者が出てきたといわれている。
『慶應義塾五十年史』は、慶應二-三年のころから次第に刀を廃したとしるしているが、実際に行われ出したのは、新銭座に移った以後ではなかったかと思われる。塾生の廃刀について、『福沢諭吉伝』に左のような逸話をのせている。


或日小幡甚三郎外二三人の塾生が丸腰で散歩してゐると、どこかの壮士に見とがめられ、お前達ほ武家でありながら何故大小を差してゐないかと議論を吹きかけられたことがある。又其反対に塾に入らうとして来た帯刀の武家が、新銭座の近傍で、福沢の塾はどこかと尋ねると、丸腰の男が丁寧に教へてくれた。扨塾に来て塾頭に会つて見ると、何ぞ図らん、今道を敦へてくれた男が小幡塾頭であつたのに大に恐縮したとの奇談もある。何分当時の塾生はいづれも諸藩の士族であるから帯刀はなかなか思ひきれず、分塾から本塾に通ふか又は近辺の散歩には丸腰であるが、上野とか浅草とかいふやうな遠方へ行くときには矢張り双刀を帯する者があつて、大小は必ずこれを所持してゐたので、これがため時としては物騒の事件を惹き起すことがある。(中略) 芝山内の分塾に三河の者で庄田某といふ酒癖の悪い塾生が居た。或日泥酔して仲間と喧嘩を始め、抜刀して相手に斬りつけんとしたので、相手も同じく抜刀してこれに対し大騒動の最中、分塾の監督をしてゐた渡辺久馬八が飛び来り、庄田の打下す太刀を側にあつた経机で受止め、刀を奪取つてこれを組伏せてしまつた。


この逸話に出てくる、丸腰で本塾との間を往復した分塾とは、汐留の分校を指すのか、あるいは後に出ている分塾と同じく広度院を指すのかは明らかでないが、とにかく汐留の分校ができたのは、明治二年八月であり、三年の春ごろに広度院が、四月には龍源寺が借用されたのであるから、そのころでもなお塾内に抜刀騒ぎがあったのである。しかしそれほ酒に酔ってのことで、平素ほそのようなことはなく、むしろ世間の風潮に先だって、廃刀の機運が熟成の間で強まってきていたといえまいか。広度院で抜刀騒ぎを演じた三河の庄田某というのは、そのころ入塾した南設楽郡三河大野出身の荘田健二(明治三年二月二十七日入門)と壮田復平(明治三年一一月一日入門)の両名があるが、おそらく壮田健二でほなかったかと思われる。
廃刀とならんで、新時代の風習として行われた斬髪についてほ、実害も無かったためか、規則にほ全然しるされていないが、明治元年前後から、次第に塾生の間に行われてきた。『慶應義塾五十年史』 に、(以下、略)

第二章 近代教育の先駆
第三節 本塾の三田移転

P305 5行目 ~ P307 6行目

新銭座時代の入社生数を月別に示すと、

年  月 入社生数 備考
慶應四年一八六八 三月 四名
四月 四名 新銭座に移り、慶應義塾と命名。
閏四月 四名
五月 三名 上野彰義隊の戦い。
六月 二名
七月 九名
八月 一〇名
明治元年 (改元) 九月 一二名
十月 一六名
十一月 一七名
十二月 九名
明治二年(一八六九) 一月 一一名
二月 二九名 このころ敷地最奥の部分に二階建校舎建築。
三月 三三名
四月 四二名
五月 一八名
六月 八名
七月 三名
八月 二四名 汐留の奥平家本邸内に汐留出張所を開く。
九月 一七名
十月 二五名
十一月 三二名
十二月 一二名 汐留の奥平家本邸の一部焼失。
明治三年(一八七〇) 一月 二四名 広度院借用か。
二月 二七名
三月 二七名
四月 二八名 龍源寺借用。
五月 三七名
六月 一二名
七月 一三名
八月 一三名
九月 二五名 このころ江川長屋借用。
十月 二五名
閏十月 五九名
十一月 二四名
十二月 一一名
明治四年(一八七一) 一月 四名
二月 二六名
三月 一七名 三田に移る。

第二章 近代教育の先駆
第三節 本塾の三田移転

P312 6行目 ~ P314 16行目

汐留の分校は、『慶應義塾新議』によると寄宿生を置かないことになっていたが、寄宿の希望が特に多かったので、間もなく汐留分校にも寄宿生を置くことになったらしい。明治二年十二月二十八日尾張町から出火し、汐留の中津藩邸も類焼しようとしたとき、汐留分校の塾生と本塾から応援に出向いた塾生の懸命な消火作業により、からくも類焼を免れることができたというから、ある程度の寄宿生が起居していたことは明らかである。  汐留分校の学生数を的確に知る資料ほないが、明治二年九月三日入塾の須田辰次郎の懐旧談によると四-五十名の在塾生がいたといい、また『慶應義塾七十五年史』には、汐留の奥平邸が焼け、古川端の龍源寺に移ったのは、出張所の人員そのほか約五十名であったといっている点から、須田の言う四-五十名近い学生が起居していたものと思われる。
汐留の分校に使用していた長屋は、前にも述べた通り、慶應二年(一八六六)末に中津藩邸が類焼したため、返還が要求された。しかし急に明け渡しを要求されても、四-五十名近い学生を急に移すこともできないので、中津藩と種々折衝の結果、階下を藩に引き渡すこととなった。したがって、校舎が狭く授業に支障が生ずることが多かったので、福沢は他に適当な校舎を探し、とりあえず、奥平家に縁故のある麻布古川端の龍源寺を借り、そこに分校を移したのである。明治三年五月七日付藤野善蔵宛福沢書翰によれば、龍源寺に移る以前に土井家とも交渉をしていることがわかる。龍源寺への移転は、荘田平五郎の日記四月二十二日の条に、「会議あり、麻布龍源寺出張塾の読を決す。永島、和田、小杉、予、移住の鬮(くじ)を得。午下、小幡氏等と同道見分す」とあり、その翌日「今日、三君と麻布に移る。明日、書生引移なり」とあるから、四月二十四日に移転したことがわかる。しかもその移転は相当急いでいたようである。龍源寺へは汐留の分校および他からと合わせて約五十名が引き移ったといわれるが、龍源寺の借用ほ、汐留奥平邸狭小によるやむをえざる一時的便法であって、福沢としてほ長期間ここを借用する気持ほなかったのではなかろうか。貸し主の龍源寺でも、長期間学塾として使用されることほ、少人数でないだけに確かに迷惑なことであったに違いない。
汐留の奥平藩邸ほ明治二年末の火災にあったので、翌三年正月十二日に筋達門内旧福山藩邸が与えられたが、福沢はさっそくその新屋敷中の長屋の貸与を交渉している。汐留の分校ほ、奥平家上屋敷の移転により、明白に廃止になったと考えられるのであるが、龍源寺への移転まで分校が存在したか否かは明らかでない。
龍源専への移転と前後して芝増上寺山内の広度院にも分校が置かれ、稲垣銀治および渡辺久馬八が監督に就任していたといわれ、この広度院開設の月日ほ明らかでないが、三十余名の寄宿生がおり、毎日新銭座の本塾へ通学したこの三十名の学生の過半は尾張、加賀、長州、土佐、長岡の諸藩士であったといわれている。広度院分塾の設立は、あるいほ奥平家新屋敷の長屋借用に失敗した前後ではなかったかとも思われるが、なんら日時を明らかにする資料がないので、一応疑問としておく。
明治二年八月以降の入門生の状況は、既述のように相当の数に上っている。したがって明治三年初頭には相当数の学生が在塾していたと推定される。明治三年一月二十二日付九鬼隆義宛福沢書翰に、当時の塾生数を左のようにしるしている。
都下相替義無御座、弊塾も依旧読書仕居、生徒は弐百名余、此内文典の素読終り会読等いたし侯者百五十名斗に御座候。
『慶應義塾新議』によると、会読は入社後三-四ヵ月にて始まるのが一般であるとしるされているから、五十名余の人員が三-四ヵ月以内、すなわち明治二年九月以降に入社したと考えられる。十月、十一月、十二月の三ヵ月に入社した学生数は六十九名、九月入社の十七名を加算すれば八十六名に達する。したがって入社生の約三割五分近い学生が脱落していったとみることができよう。
とにかく明治三年一月下旬に約二百名の学生が在塾していたとすると、本塾の収容能力約百五十名、汐留の収容能力約五十名足らずであり、ほぼ満員に近い状況であった。したがって明治三年一月-五月の多数の入社生数をいかにして収容したのであろうか。明治三年一月-五月の入社生数百四十三名、その三割五分余の人員が脱落し、更に三ヶ月以上在塾者中から卒業あるいは退塾者があったとしても、優に五十名以上の人員の増加が考えられるのである。龍源寺に移転した明治三年四月二十四日以降の入社生は、龍源寺への収容によって、一応解決することができる。しかしそれ以前の入社生をいかに収容したかは、やはり不明のままである。(以下、略)

第二章 近代教育の先駆
第三節 本塾の三田移転

P316 6行目 ~ P317 7行目

入塾生の傾向は六、七、八の三ヵ月間低調となり、九-十一月に再び増加している。六、七、八の三ヵ月間の入塾生の減少は、おそらく収容施設がすでに飽和状態に達していることを示している。広度院、龍源寺の分校は、塾生の急増傾向に対処するためにやむなくとった臨時の対策であった。これら分塾は、新銭座の本塾から相当の距離にあり、かなり不便であったことは容易に想像される。福沢としてほ、できるだけ新銭座に近い所に塾舎を求めようと心がけ、その結果、同じ新銭座の江川長屋を借り受けるに至ったのでほないだろうか。
江川長屋分塾開設の時期を直接示す資料はないが、明治三年閏十月六日入塾の牧野鋭橘が江川長屋に入ったというから、この時すでに存在していたことを知りうるのみである。同年秋にできたといわれているから、入門生の状況と対比して、九月以降の増加が、この江川長屋の使用によるものでほないかと思われる。
江川長屋の借入れにより広度院、龍源寺にいた人員をここに収容したとのことであるから、約百名以上の収容能力を持つ長屋であることほ明らかである。明治三年九月以降の入社生数ほ同年末までに百四十四名を数える。 相当数の学生の退学を考えても約九十名前後が増加したと思われる。したがって、江川長屋は百五十名程度の収容能力を考えねばならないのではないか。この長屋ほ、三田に移築されたといわれるが、岡本昆石の描いた三田の塾舎の図面(第三二五ページ参照〉によると、九畳十畳各八室ずつの二階建長屋が、新銭座から移築されたとあるから、あるいほこれが江川長屋でほなかったかと思う。
以上の状況から推察して、学生数の増加にともなって、できるだけ塾舎の増加を図ったが、常に入塾希望者がそれを上回り、入塾を拒否することが繰り返されていたのである。
また入塾生の出身地が、特定の地方に固定せず、全国的に散在している点から考えて、義塾が名実ともに全国的な最高の英学塾として発展を続けていたことがわかる。

第二章 近代教育の先駆
第三節 本塾の三田移転

P322 5行目 ~ 11行目

さて、総がかりで塾の移転先を探すことになったが、当時東京市内には、大名の空屋敦が多くあったので、いろいろ物色したようで、『慶應義塾五十年史』によると、西の久保神谷町仙石屋敷、飯倉片町の紀州屋敷、高輪の毛利邸が候補地にのぼったという。『福沢諭吉伝』および『慶應義塾七十五年史』によると、そのほか市ヶ谷の尾張家上屋敷もー応の候補にのぼったといわれている。『慶應義塾五十年史』 にいう飯倉片町の紀州屋敷は不明であるが、地理的条件が良ければ建物が不十分だったりして、容易に適当な場所がなく、結局、新銭座から三田の龍源寺に通う学生たちが、自然に現在の三田すなわち当時の島原藩の中屋敷の前を通り、地理的条件も良く、また屋敷も相当広いところから、この地を候補地としてその入手方法を講じたのだといわれている。

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