竜源寺と松の木だんご
平成2年8月20日 初版発行
平成6年4月10日 改訂版
著者 : | 柘植 粂次郎 |
---|---|
発行 : | 地域の歴史を知る会 |
「竜源寺と松の木だんご」として書いてみたいと思います。
小生の住んでいるこの街の周辺には、古い歴史の匂いがこびりついていて街のどこを歩いてみても、なんとなく、それぞれの時代にかけまして、豊富な話材がころがっているような気がして、筆不精な私でも書いてみたくなることがあります。
有名な史跡なども多く、泉岳寺もそう遠くないところにありますし、忠臣蔵の関孫のことなどもいろいろございます。
まず、三田四丁目から魚藍坂を昇り切ったところを右折しますと、右手一帯は昔、細川越中守下屋敷で、かなり広大な敷地となっております。
また、この地は廃藩以後しばらく、海軍省軍医寮となり後に東宮御所になったのですが、その明治八年に三府屋又兵衛が作成しました。高輪西町壱番地とあり、何回か町名も変わり、現在は高輪一丁目となっております。
ここには細川越中守の下屋敷があって、大石良雄以下十七名の切腹の跡を示す記念碑があることは有名です。
ご存じの赤穂浪士四十六名は、四人の大名(細川越中守・松平隠岐守・毛利甲斐守・水野監物)に預けられ、切腹したわけですが、魚藍坂下には、荻生徂徠(一六六六~一七二八・江戸茅場町に護国塾を開き、実際的道徳と経世論を説く)で有名な長松寺があり、三味線の元祖石村近江家十一代の記念碑並びに墓のある大信寺もあります。
さらには、「江戸名所図絵」に紹介されております、加賀の千代女のつるべの井戸で有名な薬王寺や魚藍寺などがあります。
さて、港区三田五丁目に竜源寺という古い寺がありますが、この寺は昔、麻布今井村(現在の麻布六本木附近)にありましたけれど、元禄十一年(一六九八)現在地に移りました。竜源寺の記録によりますと、この寺は当初今井村にありましたとき竜翔院と称し、永禄七年(一五六四)以前からあった と云いますので、約四百二十六年の古い時代の創建と云うことになります。そして、現在の竜源寺と改称されましたのは元文四年(一七三九)と云いますから、今井村から現在地に移りましてより永い年月を経ております。
この改称にあたりましては、越渓禅格禅師を開山の祖とし、豊前中津藩主奥平昌成公を開基としております。
「江戸名所沢絵」 (天保七年・一八三六年七巻二〇冊刊行完了・著作=斎藤卓雄・幸孝・幸成・長谷川雪旦等四氏)によりますと、竜源寺には、安産観音(如意輪観世音菩薩)があり昔は有名だったようで、竜源寺の話では、今でもときたま、遠くから安産祈願のためお参りにこられる方があるとのことです。
この安産観音は、竜源寺開山の祖越渓禅師の母(肥前の鍋島舎人の第二子深江平兵衛の室)が観世音菩薩に詣で「もし子宝を授けて頂き男子が生まれたら禅僧にします」と折誓し、禅師が生まれた囚縁からこの安産観音を本尊仏としております。
古い記録によりますと、水月観音堂というのが麻布時代からあり、寺の移転とともに移したとありますので、よほど古いものと思われます。高さは台座ともに一米余で、まことに美しい観音像です。
「竜源寺の歴史について」によりますと、福沢諭吉先生が中津藩士でありましたところから新銭座(現在の浜松町の辺で貨幣を製造する工場があったところから、金座、銀座、銅座とともにそのように呼ばれた)で塾を開校する以前に、この龍源寺で中津藩の子弟を教えていた記録があり、いわば慶應義塾大学の基礎になったとみることができます。
竜源寺は、前述しましたように麻布今井村にありました竜翔院が移転し、後に改称されたものですが、移転につきましては、百三十年間という氷い年月ではございますが、麻布台町、今井谷町、麻布新町に種々の事情から転々として現在地に移りましたのが元緑十一年で、この地(当時は古川町と云いましたが、後にこの地域に住んでおりました豊岡某の名をとりまして、豊岡町という名称に変わりました)は、小出千代という武家の上屋敷でありましたが、千二百五十坪余を替地として拝領したもので、「東は水谷主水殿、西は古川を隔てて堀玄蕃殿屋敷に接し、南は農家源蔵の住居に、北は古川に注ぐ幅一間の下水で限られた地域」と古文書にありますから、ほぼ現在地であると思われます(松原泰道師の書より引用)。
しかし、今では、隣地を売却したり、貸したりして、竜源寺で使用している土地は三百数十坪になっております。
竜源寺は、それぞれの時代に、この地域の住民に、なんらかのかたちで影響をもち、その住民の生活と深いつながりをもってきたものと思いますが、私が子供の頃、竜源寺にもっとも強い印象を受け、いまでも記憶に残っているのは、大正十二年九月一日の関東大震災のときのことで、附近の住民とともに竜源寺の境内に避難した思い出であり、当時のことは子供心に強く生々しく今でも時折り、ふっと脳裏をかすめることがあります。
大地震の余震の続くなかで、竜源寺の境内に幾張りかの大きなテントを張りまして、豊岡、松坂、新広尾町などの老人や子供が集められ、特別に役けられました避難所に幾日かを過ごしたものと記憶しております。
筆者の現在住んでおります三田五丁目(町会の名称は、従来から使われていた三田豊岡町を残しております)の豊岡町という町名は、豊岡某と言う人が住んでいてそのような町名になったと云われておりますが、昭和三十七年五月「住居表示に関する法律」が施行され、四十年代に入り、港区も次ぎつぎと町名の変更を行い、この地域も改名されたものでございます。
竜源寺が麻布今井村から移ってまいりました当時は、豊岡町の辺りは、麻布古川町と、竜源寺のある略図にもありますので、元禄以後のことかも知れませんが、豊岡某のことについては定かではありません。 前号で紹介しました竜源寺の松の本につきましては境内の門の脇にありまして、昔は枝ぶりも良く、道路にかぶさるようだったと記億しております。
また、これから紹介します茶店も、この松の木の枝の下にありました。 もっとも茶店と申しましても、当時は駄菓子やタバコなどを売っていて、子供の頃よく行ったことがありますが、奥行の深い店で、店先にガス燈があったということですが、そのガス燈のことと有名な松の木だんごを食べた記憶がありませんので、この頃は売っていなかったのではないでしょうか。
この茶店は、当時田中松太郎・なか夫妻がやっていて、この松太郎氏が何代目にあたるのか不明ですが、ご両親も健在だったようで、父親は田中吉五郎という人で、おそらくこの人の時代には茶店で松の木だんごを売っていたと考えられます。また、この田中松太郎という人は昭和十八年事故で他界されましたが、一男五女の子供がおりました。
この竜源寺というお寺に「松の木こども会」という近所のこどもたちの勉強の場だったのでしょうか、現在の住職のお父さんが学生の頃と言いますから、大変古い話しですが、その時代の住職は松原祖来と言う方でしたが、この当時のこどもたちの写真を拝見しましたが、松原住職を中心にしまして六十名近くいたでしょうか(竜源寺境内の松の大木の下で、だんごを売っていたところから松の木だんごと呼ばれていた)、その家の娘さんで、その時四~五才ぐらいでしたが、田中久子という子供で、一番前の席にちょこんとすわっていたのがなんとも可愛く印象にのこっております。
この「松の木こども会」は、松原泰道氏が学生時代に仲間の近藤、錦織氏、いずれも当時学生らと共に運営し、毎月第三日曜日の午後一時から三時頃まで勉強していたようで、松原泰道師の話しによりますと、昭和元年から六年間に及んだそうです。
さて、田中家のことですが、長男は戦死され、三人の姉妹が若くして世を去り、現に健在なのは長女の奈津子さん(渋谷区在住)と一番末の田中久子さん(目黒区在住)の二人だけのようです。
田中松太郎さんの家は、松の木の下の店と、その直ぐ前の道路を挾んで、木炭を販売する店を持っておりましたが、戦時中強制疎開で立ち退き、現在田中久子さんが住んでいる目黒区平町に移転しております。
松原泰道先生は、多くのたくさんの本をだしておりますが、仏教伝道に大変な功績をあげられ、昨年四月「仏教伝道文化賞」を受賞されておりまして、仏教界では知名な先生となられましたが、往時は学生で青少年の教育にも力をそそいでいたようです。竜源寺の住職も祖来住職のあとをうけてながくおやりになり、仏教界だけでなく地域でも信望のあつい方です。
竜源寺住職松原泰道師の書いた「竜源寺の歴史」によりますと、この寺の檀家の古老に福地宣一翁という人がいて、「古川の流れも昔はきれいで、水も澄んでいました。松の木の下は茶店で、松の木のだんごを売っていて、こどもの頃はお寺参りよりもだんごを喰べるのが楽しみでした」と松原泰道師が少年の頃聞いた話しとして紹介しております。
この話しなど、往時の風景までほうふつとしてまいりまして、よいお話しではないでしょうか。
白魚も取れたという、昔の古川の清らかな流れに添いまして街道があり、茶店の床机(しょうぎ)に腰をかけた、お寺参りの親子なり、祖母と孫がだんごを喰べ、茶をすすり、古川のゆるやかな流れや風景に見惚れている情景など、一幅の絵にしたいぐらいですが、現在はドブ川のようになりました古川と、その上にかけられた高速道路、あまりの変化に唖然とされる方もおられると存じます。これも現在では止むを得ないかも知れませんが、白魚や鮎も棲んでいたという古川に、雑魚も棲めなくなり、公害で四百七十余年も生きぬいてきました有名な松の木も枯れて終い、遂に切り倒さなければならなくなるという現実を、子供達にどう説明してよいか戸惑う思いです。
前に竜源寺において、福沢諭吉先生が、当初中津藩の子弟を教えていた記録があったことを、松原泰道師の「竜源寺の歴史」を紹介するなかで書きましたが、慶應義塾大学のことにつきましては補筆しておく必要があろうかと存じます。
港区立神明小学校(港区浜松町一の一三の一)の構内東側に、福沢・近藤両翁学塾跡という記念碑がありますが、港区教育委員会発行(昭和五十四年三月)の「港区文化財のしおり」及びこの碑によりますと、この近くにありました、芝新銭座の江川太郎左衛門の長屋に福沢諭吉先生の「英学塾」 (一八五八年福沢諭吉が築地鉄砲洲につくった)が移転して来たのは、明治元年(一八六八)で、此処より東北方に当たる(記念碑の位置から)。当時の年号にちなみ慶應義塾と名付けられた、とありますが、どうも不自然です。明治元年に移って来て、当時の年号にちなみ改名するなら、「明治義塾」ということになります。そこで、慶應から明治に移った当時の状況などを調べて判明したことですが、福沢諭吉先生の「英学塾」が鉄砲洲から新銭座に移転したのは、正確には明治元年ではなく慶應四年四月三日で、当時は、幕末の混乱期で、たとえば三月十三日、西郷と勝が会見し江戸城開城の諒解をとりつけ、江戸城に討幕車が入城したのが四月十一日、討幕が上野に彰義隊を討ったのが五月十五日、榎本武揚が幕府の檻船八隻を率いて脱走したのは八月十九日、そして、そうした中でも新政府は着々と体制をととのえ、江戸を東京と改め(一八六八年七月十七日)、九月八日明治と改元し、一世一元の制度を定めました。
従いまして、この九月八日から明治という年号が成立するわけです。
「港区文化財のしおり」(昭和五十四年三月発行・港区教育委員会)の慶應義塾が芝新銭座江川太郎左衛門の長屋に移って来た年号の誤記を指摘しましたけれど、このことは大切なことで、慶應義塾の創始者であります福沢諭告先生ともあろう方が、明治元年なのに、当時の年号にちなみ慶應義塾と名付けるはずもないと考えて調べましたところ、鉄砲洲にありました「英学塾」が、芝新鉄座に移転し「慶應義塾」と介名したのは慶應四年四万のことで明府と改元されますのはその五カ月後の慶應四年九月八日です。
何故慶應義塾と名付けたかにつきましては、福沢諭吉光生の口述によります「福翁自伝」におきましてはっきり明治の改元前だったので、時の年号にちなんで慶應義塾としたと述べております。
ここで「福翁自伝」の記述等お借りしまして、その間のいきさつをもう少し書いてみたいと存じます。
安政五年十月、中津藩の命により、藩の子弟の教育を行うため、大阪の緒方塾(蘭学者緒方洪庵の塾で、福沢諭吉は塾長をしていた)を辞任し、江戸に出て、鉄砲州(築地の聖路加病院の辺り)にありました中津藩中屋敷に「蘭学塾」(後に英学塾となった)を開設しましたが、それから十年後の慶應三年に、鉄砲州の中津藩奥平屋敷も、外国人の居留地に決まり、幕府から上地(じょうち)を命ぜられ、止むなく、福沢諭吉は移転を決意、芝新銭座の有馬家中屋敷を買い受ける話を進め、慶應三年十二月二十五日(福沢諭吉の口述によりますと、当時薩摩屋敷の焼打事件等がありまして騒然としていた最中でしたが)、四百坪の有馬家中屋敷を三百五十五両で買い取ったとあります。
この地は、他の資料によりますと、慶應義塾が移転した後攻玉社の近藤真琴に請われて三百円で譲ったと記録されております。
話を戻しましてこの屋敷は、早速大工その他の職人を雇い入れて、鉄砲州の古長屋を貰って来て建てたということですが、慶應四年四月始めに完成し、今までの「英学塾」を慶應義塾と改名し、開校しましたが、それは安政五年(一八五八)十月に蘭学塾として出発しました福沢諭吉の塾がいよいよ本格的に新しい教育事業を一般に公開し、中津藩の子弟の教育という粋をはずした、また、内容的にも画期的なものとして再出発したものと考えられます。そして、さらに、慶應義塾として開校しました芝新銭座の塾も四年後の明治四年(一八七一)三月現在地(東京都港区三田二の一五九の四五)の三田に移転し、現在の慶應義塾大学の基礎を築いで行きます。時に福沢諭吉三十八歳の春です。
前号で福沢諭吉が、三田五丁目にあります竜源寺におきまして、中津藩の子弟を教えていたことを、松原泰道住職の話や古老の話などで紹介しましたが、明確な、そのことについての資料はありませんが、竜源寺は、豊前中津藩主奥平昌成公を開基として再興した寺で、中津藩士と密接な関孫にあったこと、さらには、寺のご縁なとがら推察してそのようなことも考えられます。
また、竜源寺と福沢諭吉の関係は深かったようで、慶應義塾が三田の台地(島原藩邸跡地)に移りまして三年目に、諭吉が少年の頃より敬愛していた母のお順(享年七十一歳)が亡くなり、竜源寺に埋葬(明治七年五月八日)しております。
福沢諭吉が教育熱心で物事に動じないことについては、「福翁自伝」に紹介されておりますが、たとえば芝新銭座に移りましてから、上野彰義隊と討幕軍の戦いが始まりました時も学業を休まなかった、と書いております。
前にも書きましたように、慶應義塾が芝新銭座から三田の島原藩邸跡に移ってまいりましたのが明治四年三月ですが、これも大変苦労して、最初は借地し、後で払い下げを受け、一万三千何百坪(他の資料によりますと一万四千坪と書いてあります。現在の慶應義塾大学の管理簿には四万八千四百平方米、つまり一万四千五百二十坪と若干増加しておりますが、勿論中等部、野球場などは含まれません)を当時の金で五百何十円で取得したと「福翁自伝」に書いております。
その経緯(いきさつ)や島原藩士とのやりとりなど、非常に面白く、王政維新という時代の流れの中ではありますが、福沢諭吉の洞察力というか、慧眼には驚くばかりと云う以外にないと存じます。芝新銭座に塾舎を建てるときもそうですが、当時江戸はまさに戦禍に見舞われるやも知れず、家をたたんで逃げ出す人も多い中で、新しい洋学の塾を積極的に進めようというのですから、よほど確信を持っていたのではないかと存じます。
なお、「港区文化財のしおり」で、慶應義塾についての誤記と考えられる表現について、参考のため原文のまま記載しますと次のようになります。
福沢・近藤両翁学塾跡
表題の記念碑が神明小学校構内東側にある。福沢諭吉の塾が築地から芝新銭座の江川太郎左衛門の長屋へ移ってきたのは明治元年(一八六八)である。此処より東北方に当たる。当時の年号にちなみ慶應義塾と名付けられた・・・
以上となっておりますが、明治元年に移ってきて、当時の年号にちなみ慶應義塾と名付けられたと云うのは不自然な表現で、明治と改元になる前の慶應四年三月に移ってきており、福沢諭吉自身もそう書いているので(福翁自伝)慶應四年(一八六八)春移って来たとした方が良かったと存じます。勿論その年の九月八日から明治と改元されましたが、改元の前であったことは間違いないと考えまして、読者に正しく知って頂くために記載いたしました。