◆三門の言葉◆
春山は
青く
春水は
碧なり
虚堂録

出家について
松原信樹
先日、たまたまテレビをつけておりましたら、自分の子供が新興宗教に入信している母親のインタビューがありました。報道を聞いている限りでは、もう五年くらいその母親は息子と逢っておらず、母親が連絡しても息子は「出家したから家族には逢わない」の一点張りだそうです。出家と家族の関係はこのように相反するものなのでしょうか?『輔教編』(ほぎょうへん)という本に出家した人の父母家族に対する心掛けが書いてあります。
「門人たちよ。君たちは、髪をたちきってわが仏道に仕える身である。ところが父母の方から会いたいといってきても、こちらは出家だからという理由で会いに行かない。それで私は、いつも次のように忠告するのだ。出家たるものは、情識は正しく保たねばならぬが、両親のことをおろそかにしてはいけない。君たちはまた、わが釈尊がはじめて仏法を興隆なさった時、菩薩の大戒を定められたのを聞き知っているだろう。そこには、「孝を戒と名づける」とのべられている。つまり孝を持戒の発端としているのである。君たちが戒の実行に志しながら、孝をおろそかにしようとするようでは、戒とはいえない。そもそも孝は真っ先に実行すべき菩薩の大戎である。戒は、もろもろの善の生まれる根源である。善の実行に戒がなければ、善の生じようがない。戒の実行に孝がなければ、戒のたもちようがない。だから経には、「私がすみやかに無上菩提に到達できたのは、幸徳のたまものである」とのべられているのである。(二三子。祝髪方事於吾道。逮其父母命之、以仏子辞而不住。吾嘗語之日、仏子情可正、而親不可遺也。子亦聞吾先聖人、其始振也為大戒。即日、孝名為戒。蓋以孝而為戒之端也。子与戒而欲亡孝、非戒也。夫孝也者、大戒之所先也。戒也者、衆善之所以生也。為善徴戒、善何生耶。為戒徴孝、戒何自耶。故経日、使我疾成於無上正真之道者、由孝徳也。)
孝(父母によくつかえること。)を持戒(戒をまもること)の発端とし、その戒(仏教に帰依した者が守るべき規則)は真っ先に実行すべき戒だとしております。戒の実行を志しながら、孝をおろそかにするようでは、戒とはいえず、また、その戒はもろもろの善が生まれる根源であるとしています。息子が新興宗教に入信している母親は、テレビの報道中ずーっと泣いておられました。もちろん、息子の方はもう、成人でありますし色々な取捨選択を彼の判断の中で決めたことだと思います。しかし、悲しむ人がいるという現実の前でそれが本当の出家といえるものでしょうか。『輔教編』は出家には三本の柱があると述べております。それは道理・師僧・父母です。道理は妙なるはたらきの根本であり、師僧は教法伝授の根本であり、父母は身体生成の根本であるとしています。(天下之明徳者、莫善於教也。吾資師以教。故先於師也。天下之妙事者、莫妙於道也。吾食道以用。故先於道也。夫道他者、神用之本也。師他者、教詰之本也。父母也者、形生之本也。)つまり、彼の場合、新興宗教の道理・師僧だけでは出家とはいえないのです。三つの柱が揃わなければ本当の意味での出家ということが言えません。このことは出家した人に限らず皆さんにも言えることができます。道理=物事の理屈にあったすじみち・師僧=人生に於ける師・父母=家族(身体生成の根本)とおきかえると、教えを作りあげるために歴代の聖人が精進した道を、おのずとみなさんは人生の中で選択することになります。人生において重要なのは選択と決断であります。私達がしなければいけないことは人格の発展です。しかし、私達は他人のためにも生きていかなければいけません。私達に残された日は死亡の日から今、この時点の日にちの引き算の結果であります。その中で『輔教編』は『梵網経』心地品から引いてきて「父母と師僧に孝順する。孝順は、最高の道である」としめます。(大戒日、孝順父母師僧。孝順至道之法。)
親孝行で柔順なこと、広義にとれば父母にとどまらず家族をも大切にし、さらには先祖をも大切にすることを『輔教編』は最高の道としているのです。
参考文献
荒木見吾『輔教編』禅の語録十四 筑摩書房
第二回三宝会
仏教歴史の旅・西安
相澤 善郎
昨年の仏教聖地「五台山」に続く二回目の松原哲明先生ご案内による三宝会の旅です。
三蔵法師玄奘の大唐西域記、慈覚大師円仁の入唐求法巡礼行記を三年掛かりで哲明先生に学び、新鮮な思いでこの旅に参加しました。
二月七日 午後、黄砂とスモックに霞む西安空港に哲明先生以下十八名到着。十世紀初頭まで二千年もの間、十二王朝が都を置いた漢中平野は、春を待つ広漠とした平原で、到る所に史跡が埋まっているとのことです。十二日から中国の正月(春節)に入りますが、その為でしょうか西安城内の雑踏は、師走の賑わいの様です。南門を出て慈恩寺に着きました。広い境内も往時の十分の一とのことです。一際高く聳える大雁塔が唐代唯一の遺跡で、玄奘が印度から持ち帰った経典を保存する為に七世紀に建立されました。九世紀に長安を訪れた円仁さまも、この塔に登られたとのことで、円仁さまを偲びつつ最上階まで登りました。少し霞んでいましたが、遮る物も無く素晴らしい眺めでした。
四日間の宿、唐華賓館は慈恩寺の隣で、広い池を囲み回廊で宿舎を結んだ緑の多い、静かなホテルです。
二月八日 ホテルの庭は小鳥の声が賑やかです。哲明先生他三名の玉華宮行きを見送り(別記)残された一五名は観光地巡りに出発、まず、歴代王朝が離宮を営んだ温泉地、華清池で玄宗皇帝と楊貴妃のロマンスに胸をときめかせ、始皇帝陵の東にある兵馬俑発掘地の規模と精巧さに驚き、石の図書館と言われた碑林博物館で、欧陽詢・顔真卿等の石碑にしばし足が止まりました。
夕方、シルクロードの玄関西安城の西門に登り、旧市街を囲む堅固な城壁に、又も驚きました。城壁上で年に何回か市民マラソンが行われるようです。円仁さまが訪れた唐長安の城内は、現在の九倍の広さだったそうです。
二月九日 暖かな朝です。西安南郊の仏教遺跡をたずねました。最初の訪門地興教寺では丸い石門をくぐり玄奘の遺骨が納められた慈恩塔院を参拝しました。五層の唐三蔵塔の両脇に二人の弟子の墓、基師塔と測師塔が木立の中にひっそりと建っています。哲明先生の先導で般若心経を読経させていただきました。本堂大遍覚堂、臥仏殿は最近建てられた様です。
次に日本の浄土宗の開祖、法然上人に大きな影響を与えたと言われている浄土宗発祥の地、香積寺を訪れました。唐代に建てられた始祖・善導和尚の塔が、頭部を失いながらも高く聳えています。日本人の訪問記念碑が数多く有りました。
弁当昼食後、草堂寺へ向かいました。途中、子午鎮の集落まで来たところ、道路の両脇は二重、三重に露店が並び、春節の買い物の人が車道にまであふれ、バスは立ち往生です。露店には豚の頭、太刀魚、胡麻油の搾り売り、饅頭、ローソク、花火、切り絵、衣服等いろいろな物が敷物一枚の小さな専門店として百米余り並んでいます。また里帰りでしょうか、正装した若い男女が大きなカバンを抱えた姿が印象的でした。雪を頂いた落南山の山々を望む草堂寺は、五世紀初めに長安に来られた名僧、鳩摩羅什(印度系クチャ人)が、仏典を漢語に翻訳された処です。小さな御堂の中に八角の石塔墓が収められていました。全員で観音経を読経しました。
最後の訪問先、青龍寺は、長安の時代は城内に位置した様です。小高い丘陵地の境内は日本から贈られた桜の木で一杯です。千二百年前、青果阿闍梨に弟子入りした空海をはじめ、円仁、円珍もこの寺で密教を学んだ名刹です。唐末の戦乱で廃寺になりましたが、一九七三年に発掘され、まだ新しい日本様式風の紀念堂が建立されていました。
旅の最後の夕食は、西安城内の鼓楼に近い餃子の店「徳発長」です。店内は春節の色とりどりの飾りが綺麗です。この地方は春節に餃子を食べる習慣があるようで、二十種以上の餃子を先取りして楽しみました。また、旅行中に作った漢詩が、哲明先生から紹介されました。
二月十日 荷物をマトメて遅い出発です。見学地陽陵は前漢六代皇帝・景帝の墓陵で、帝墓を中心に皇后、妃墓等が平原の中に点在しています。往時の陵域は城壁に囲まれ、墓守の住人が二十万人も住んでいたとの事です。地下宮殿をはじめ陵域の発掘は進んでいないようですが、副葬墓から出土した遺品が博物館一杯に展示されていました。驚いたことに陶俑、牛馬、武器、生活用具等がすべて三分の一の大きさに造られていた事です。
まだまだ語り尽くせませんが、なによりも素晴らしい仲間と充実した旅を楽しみました。哲明先生ありがとうございました。久しぶりの青空を眺めながら、心を残して西安空港を後にしました。
感謝
二月八日
黄帝陵・玉華宮遺跡を訪ねて
山本 省吾
到着から一夜明けた二月八日は二班に分かれての行動。我々三名(三浦さん、林さんと筆者)は、哲明先生の引率で一路、黄帝陵・玉華宮へ。ガイドの黄銀燕さんによると片道百九十キロの行程とか。朝まだ早い七時四十五分ホテルを出発。高速道路を行くこと三時間弱、一般道に出て十五分程で前方左手に白亜の門が見えてきました。黄帝の軒轅廟でした。
白亜の石門を入ると樹齢五千年の黄帝手植えの柏が出迎えてくれました。オフシズーンのため全く人が居ず、静かな凛とした雰囲気が包みこんでくれました。内には蒋介石やケ小平、江沢民等中国要人の碑や香港・マカオからの参拝者の碑が点在していました。ここには年間十万人が訪れるそうです。
軒轅廟から車で三分、黄帝陵に到着。駐車場から黄帝陵まで続く石の参道(階段)は全部で五百段はあったでしょうか。あまり楽ではないですね。江沢民でも歩いて参拝するのだそうです。陵の周辺には八万本の松があるといわれており、緑にあふれていました。頂上の陵は意外と小さな盛土でした。荒れた感じは否めません。陵の前にある参拝者のための建物の中に郭沫若の碑がありました。文化大革命をも乗り越え、残っていてよかったと思います。三人でお線香とろうそくを上げてお参りしました。また、一回一元でつける、鐘もついてきました。
帰りがけ漢の武帝が建てた祈祷台に登りましたが、意外と狭いです。登り七十七段と下り七十八段の石の階段の手摺には桃、太鼓、十六面体が乗っていて、頂上の擬宝珠は南瓜とユーモラスでした。
次の玉華宮までは約二時間、車中の揺られゆられのお弁当は楽しかったです。玉華宮は太宗が避暑に使った宮殿で、今でも低い塀が巡らされていて、村人が普通に暮らす田舎の村でした。
玄奘様が弥勒菩薩に生まれ変わられるとおっしゃって亡くなられた、玉華寺跡は山あいの道路脇の細い、普段であれば見落としてしまいそうな道を登った沢の奥にありました。残念なことに遺跡の入口には有刺鉄線が張ってあり、中に入ることができませんでした。哲明先生の「玄奘様が亡くなられたのが二月五日、私たちがお参りにきたのが二月八日、これも何かの縁ですね」とのお話の後全員で般若心経を唱えました。静まり返ったなかで吹く冷たい風が心地よく、当時の人々の話し声が聞こえてくるようでした。
合掌
漢詩の紹介
哲明先生に講評いただいた西安旅行中 の作品の一部を紹介します。
長安遊 岩沢 弘
黄塵漫舞無晴天
東海遊子訪陝県
玄奘空海在何処
渭水小流生悠延
玉華宮 林 信江
残雪隶成院 玄奘靜眠中
偉大業績現 謹上紫香煙
長安春 山梨豪之
渡海数千里 未寒長安春
落日照西門 月光満城内
春霞
相澤善郎
春霞訪渭原 唯見古丘墳
旧墓為新田 栄華没黄塵

見 跡 (四十七)
弘舵郎
ご開帳
「衆生本来佛なり」は白隠禅師の坐禅和讃にあります。「夫れ諸佛の眞源は衆生の本有なり」は十牛図の総序の冒頭の句です。「無明の実性即佛生、幻化の空身即法身」は永嘉玄覚の証道歌の初めにでてくる句です。この他にこれに似た教えは沢山あるとおもいます。これらを悟れば、わが凡夫でも心がけによっては、持ってる佛性の種から芽がでる気がして元気づけられます。ところで毎月十八日は観音様の縁日、水月観音さんのご開帳です。縁日は神佛と縁を結ぶ日で功徳の生ずる日とありまして、地蔵さんは二十八日、五日は水天宮さんとあります。佛さんの人寄せの一法です。
龍翔院でも当日十一時頃には、十数名の方が狭いお堂に膝つき合わせ座ります。なにか堂に篭るというのは、これかなと思ったりします。導師と一緒にお経を唱え、観音様を拝顔します。始めに書いたわが佛性、佛種はこの姿だと思い、忘れてはならぬと、わが心身に刷り込みます。
男や出産能力のない婦人が、「安産の観音さんを拝みお願いするなんて、おかしいんじゃない」と云う人もあるかもしれません。私もそう思いましたが、「案ずるより産むが易し」というではありませんか。処世のプラン、勤務先での自分の企画等、みんな安産がいいのではないでしょうか。
ご縁のある日に、ご縁のあった佛様を拝んで佛種に水をやり育てねばと、今の時代だから、この歳だからと考えてます。当日は真紗子さんがお茶をいれてくれて、お菓子やお土産も頂けます。どーぞ皆さん十八日にお詣りください。
◆編集便り◆
☆今年はお彼岸前に桜が満開になりました。地球温暖化のせいでしょうか
綺麗に咲いた桜を見ながらちょっと心配です。
「日を浴びて花の蜜吸ふ小鳥かな」 (晃)
☆立松和平による新作歌舞伎「道元の月」を見た。
三津五郎の道元も良かったが、永平寺の豪快な屋根、裏 山の緑、雪の境内等舞台美術もなかなか。
改めて「随門記」を読み直してみようと思わされた次第。 (豪)
☆三月中旬には桜が満開で、この号が出る頃は何の花が咲いているのでしょうか。
ぼたん、つつじ、ふじの盛でしょうか。暖冬のせいか年々早 くなりますね。 (慎)
☆少し季節はずれですが、教わりなら味噌造りを手伝いました。
柔らかく炊けた大豆をつまみながら、何と か仕込み終えました。
どんな美味い味噌ができるか、今から楽しみです。
これを手前味噌と言うのでしょうか (善)