衆生本来仏(しゅじょうほんらいほとけ)なり 白隠

松原 哲明

 白隠禅師(一六八五−一七六八)は、駿州駿東郡浮島原に生まれた。わが国の臨済禅、中興の祖といわれる僧となった。「衆生本来仏なり」とは『白隠禅師坐禅和讃』の冒頭の一句である。
 「衆生本来仏なり」と。人間はみんな尊い仏のような生命をもっているのだという。一生一回、生命一個。五百万年一度も途中がと切れることなく、しかも一億の精子のたったひとつが、卵子と結合して、生まれてきているのである。自分は、白羽の矢が当たった一億の代表という実感をもち、生きなければならぬ。
 白隠は、『遠羅天釜』(おらてがま)巻の上にいう。悲しむべきことがある。人間は生まれながらにして仏と同じ智慧徳相をそなえ、仏とまったく変わらない、個々の仏性、いってみればいちばん大切な宝物というべきものをもっている。そして、たった一個の尊い、あたかもキラキラ光る生命を生き、この娑婆がそのまま寂光の楽園、毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)の浄土に住みながら、智慧の目が開かないために見えるものが見えない。だからこの浄土がただの娑婆としかうけとれず、二度とない尊い人生なのに、自分はつまらぬ人間だと思いこんでいる。もしかしたら生まれることのできない生命だったというのに、逢うことのできなかったお互いだというのに、それがわからない。見えない。大切な視座がひらけない。だから牛や馬と同じく、ただ生きながらえ、無知昏愚(むちこんぐ)なのだと、白隠はいう。
 「衆生本来仏なり」と白隠はいったが、実はこれが仏教のさとりである。そうさとったのがそもそも釈迦であり、そのときのことばを、白隠は白隠風に意訳したのである。ちなみに、釈迦のさとりのことばは「山川草木国土悉皆成仏(さんせんそうもくこくどしっかいじょうぶつ)」という。草も木もみんな仏と同じ尊い生命をもっているという意味である。
さてここに、「山川草木国土悉皆成仏」と題した一句がある。「糸瓜さえ仏になるぞ後るるな」   正岡子規の作である。
 一生が一度しかないなんて、糸瓜はそんなことは知らないけれど、スルスルとツルをのばし、花を咲かせ、実を結び、その本分をまっとうする。そして枯れ死んだのちも糸瓜を残しおいていく。
 一方、我々人間は、いつまでたっても、花が咲かず実を結べない。それでは、糸瓜にもおくれをとるぞと、正岡子規はしかる。

 正岡子規は、わずか三十五歳の若さで死んだ。もっともっと、長生きしてほしかったひとりである。

   『珠玉のことば』チクマ秀版社より抜粋