───十 牛 図───最終回 松原哲明
入テン(にってん)垂手(すいしゅ)
禅の世界を窮め尽くしたら、悟り顔して「俺は一般人とは関わり合わぬ」というのでは本物とは言えません。まだまだ修行が足りませぬ。百尺竿灯更に一歩を進めと。進んだら竿から落ちてまた初めに舞い戻り。そう、それでいい。悟り面捨てて、普通に生きなさいと言うのです。此処が十牛図の最終心境です。
胸をはだけ裸足で町をゆく
土ほこりの満面の笑み
仙人じゃないんですよ、人間は
老いた枯木に花が咲く風に生きましょうやと。
その道に通達すると、肩張り上げて自慢げに生きる人が居ます。これは、道に通達したが、まだ人間に通達してない。達人とは言えないのです。
李白に「静かな夜の思い」の詩があります。
牀(しょう)前(ぜん) 月光を看る
疑うらくは是れ地上の霜かと
頭(こうべ)を挙(あ)げて山月を望み
頭を低(た)れて故郷をおもう
牀前は寝床(ベッド)。月明かりを看ておりました。地上は白く煌々と照らし出され、まるで霜が降っているように思える月夜でした。頭をもたげて軒の山月を看るにつけても。故郷のことを思うと頭を垂れて思い出してしまう、くらいの内容でしょう。
これが井伏鱒二にかかると入テン垂手風になるから面白い。
ネマノウチカラフト気ガツケバ
霜カトオモウイイ月アカリ
ノキバノ月ヲミルニツケ
ザイショノコトガ気ニカカル
「田家(でんか)春(しゅん)望(ぼう)」。作者の高適(こうせき)は盛唐期の詩人。山東・渤海出身。若い時は極貧で辺境勤務に就いたことがあります。安禄山の時に機会をつかみ、唐始まって以来の出世頭と言われます。性豪強、節義を重んじた彼の詩は、覇気があり、気骨があって格調高いと言われていますが。
門を出でて何の見るところぞ
春色 平(へい)蕪(ぶ)に満つ
歎ず可し 知己(ちき)無きを
高陽の一徒酒
井伏鱒二にかかればこれこの通り。
ウチヲデテミリャアテドモナイガ
正月キブンガドコニモミエタ
トコロガ会ヒタイヒトモナク
アサガヤアタリデオホザケノンダ
平蕪は雑草の生い茂った平らな荒野。高陽は今の河北省保(ほ)定(てい)県の東南。高速道路で北京から四時間。私は保定の病院に人間レントゲン先生がいるので何回か尋ねたことがあります。
阿佐ヶ谷界隈は井伏鱒二を初めとして中央線沿線の作家達が酒置放談した飲み屋があることで知られます。
春のおひがん法要
3月20日(春分の日)午前11時から行いますので、
ご来山下さいますよう、ご案内申しあげます。
| ○ご詠歌と読経 |
|
| ○法話 |
松原哲明 |
| ○齋座 |
(おとき) |
お車での来寺には、駐車場の余裕はありません。
龍源寺へは
都バス
(リンクをクイックして下さい。バスの停留所の写真・案内があります。
)
@都バス 田87 渋谷駅−田町駅
魚ラン坂下下車
A都バス 都06 渋谷駅−新橋駅
古川橋下車
B都バス 品97 品川駅−新宿駅西口
魚ラン坂下・
古川橋下車
C都バス 反96甲 品川駅−赤羽橋駅−五反田駅
魚ラン坂下・
古川橋下車
D都バス 反97乙 五反田駅−赤羽橋駅(循環)
魚ラン坂下下車
E都バス 東98 東京駅丸の内南口ー目黒駅
魚ラン坂下下車
地下鉄
(リンクをクイックして下さい。地下鉄の駅の写真・案内があります。
)
@地下鉄 三田線、南北線、
白金高輪駅下車、5分
A地下鉄 大江戸線、麻布十番駅で南北線乗り換え、
白金高輪駅下車、5分

龍源寺住職・松原哲明
尊敬される観世音菩薩が、宇宙の生命存在ついての知恵の完成を目ざしつつあった時に、森羅万象・山河大地の存在を構成させる要素として、すべてに独特で唯一の自分時計があることを見抜きました。
自分時計には姿形・感覚・心の動き・針の動き・意識の五蘊もありません。
舎利子よ、存在は全て新しく脱皮しつつあり、それぞれが宇宙で唯一のものであり、自分時計でもって刻々変化しつつある現象であり、固定された実体ではないのです。
いま起きているすべては実体と捉えるのではなく、ただの一時的現象にすぎないのですから、悪い現象が現れても幻出ですから、一々悲観することはないと気がつけば、すべての苦しみがなくなります。
存在はすべて目に見えない自分時計の現象です。現象は目に見えない空・無の自分時計によって幻出されたものです。現出している現象は目に見えぬ自分時計に異ならず、目に見えぬ自分時計の幻出は、ただの現象に異なりません。
現象は目に見えぬ自分時計によってであり、自分時計は現象そのものです。目に見えぬ自分時計は姿形・感覚・心の動き・針の動き・意識はありません。
舎利子よ、すべての森羅万象・山河大地は目に見えぬ自分時計による進行しつつある現象です。自分時計は余計なものを生じ出すことはなく、また減じてゆくものではありません。ありのままの現象を幻出します。
自分時計は垢がつくようなものではなく、清らかのものでもありません。そして自分時計は増減しません。ありのままを映し出します。
自分時計は目に見えず、耳に聞こえず、鼻に感ぜず、舌にもふれず、姿形もなく、意識もありません。
自分時計は形もなく、音もなく、香りもなく、味もなく、ふれることも、説明もできません。
目で見られる範囲から、意識で捉える範囲にもありません。
自分時計のことをブッダは仏心仏性といい、空・無と表現しました。(続く)
破草鞋 松原泰道
昭和二十年三月十日の深夜に、東京の江東地区は米空軍の大襲撃を受けて、約十万人の都民が惨死しました。私はその遺骸整理の奉仕隊に参加したので、六十余年を過ぎた今も当時の惨状は忘れられません。
須田卓雄君も奉仕隊の一員で、その時の悲しい事実を新聞に寄稿しています。須田君は深川木場附近で作業中、死体に僅かに残る布片で女性と認識される黒こげの遺体の姿態に感動して、思わず作業の手を休めます。赤ちゃんを抱いたまま地面にうつ伏せになって、自分は焼け死んでも、わが子を炎火から護りたい、との念願を、ありありと感じたからです。
赤子の下には、小さな穴らしきものが掘られた痕跡があるそうです。思うに、大地を掘って赤子を寝かせ、母がその上に伏せて庇おうとしたのでしょうが、舗装された道路では、それもできません。母の黒こげの指先きは、土と血がこびりついていた、とあります。
真の平和は、この崇高な母心を世界中の人達が自覚して、はじめて可能となる、のではないでしょうか?
柳緑花紅
▼昨年暮れにインドに行きました。布教師の教え子18人に禅の会・三宝会・中日文化センターの生徒さん合わせて36人の大所帯でした。みんなよく知っている人ばかり。ファミリー旅行でした
▼初めての参加者が一番心配したのは、お腹を壊すこと。水が悪い、香辛料が合わない、疲れがとれない等が合併
して普通はどうにもならなくなり、ダウンするのですが、今回も臼井先生が参加してくださって、大事にならずにすみました。
▼うちの団体の後に妙心寺派の和尚さんがたが行きましたが、帰国して一ケ月たっても肝炎で入院したままなのが数名います。潜伏期間中はインドにいましたから帰国してから発病したのでしょう
▼二月には中国湖南省を中心に禅寺巡り。50年ぶりの大雪とか。広東・福建省に変更して帰国した。三月はシルクロードの河西回廊を敦煌までバスで行きます。現在68歳ですから、そろそろやめないと、と思っていても、時期が来ると忘れちゃう
▼以前ほど激しい日程ではありませんが、それなりにこなしています。65歳くらいまでは、自分でも善く生きてきたな、と言うほどのスケジュールでした
▼今、年譜をパソコンで打っていますが、一日講演三回なんてざら。しかも交通事故で追突されて血糖値が540の時でも無理して来ました。現在は、手帳みながら記録してますが、思い出すだけで疲れ切ります。
▼自分で言うのもおかしな事ですが、神仏の加護によって人生を飛ばしていました。加護無くしては生きられません。170冊以上の著作、140回近くのシルクロード、中国踏査。加護に感謝しています
▼暮れから春にかけて新刊本が次々に上梓されました。『禅の教え』青春出版社・『禅語』永岡書店・『観音菩薩のお経』学研・『般若心経がよくわかる本』主婦と生活社。おかげさまで。しかし、同じ内容では許されませんから、新しい視点で書くようにしないと
▼続いてNHKから『般若心経再入門』。致知出版社から依頼が来ています。つまり、さらなる勉強をということ。嫌いじゃないからご安心下さい。
▼北軽井沢・日月庵がリニューアルしました。新建のようだと副住職が教えてくれました。坐禅研修は、龍源寺でも毎週のように企業が企画してくれていますが、やはりメーンは日月庵。また、元気が出てきましたよ
▼今、仏教・禅が面白い。45年もやってきたのですから、糸口が見つからない方がおかしいンですが、これがまたぼんくらには難しい。しかし、長年継続してきたご褒美でしょう。足下に入り口がありました
▼梅が花開きました。私たちは梅を実体として捉えています。梅の枝を捕まえることが出来ますし、梅の香を嗅ぐこ
とが出来るからです。が、ちょっと待ってください
▼実は先月わが寺で60年ぶりの小学校同窓会を開きました。あの小学校一年生の面影とは違います。みんな変化してる。実体と思っていたけれど、面影という現象なんですね
▼梅の花が実体と思っていましたが、去年の梅の花と同じではない。今年の梅と去年の梅は共に実体ではなく、面影であり、現象に過ぎません
▼ブッダは言いました。存在はすべて実体ではなくて面影であり、現象ですぞと。「色即是空」ですぞ。現象を本物と取り違えてすがりつくんじゃないって
▼ですから苦しんでいても、それは君の一現象。暫くすると現象が変わる。逆に幸せと思っていても現象だから、明日はどう変わるか分からない。現象にすがりつくんじゃない、と言うわけ
▼お彼岸でまた。(哲)