───十 牛 図───F 松原哲明
ぼうぎゅうそんじん
忘牛存人
(悟ったことをわすれる)
さとりという牛にのって我が家にかえる。
道理が分かれば牛(さとり)はいらない。
三日ほど道理と熟成したら鞭も縄も牛にはいらない。(牛はもういないのだから、これらは必要ない)
禅は切り口が分からないと外をぐるぐる回りするだけで、中にはいれてはくれません。
禅の切り口は色々ありますが、大きくわけて、三つあります。
・自分の中に仏性がある。仏性とは無生心。
心の中には、眼・耳・鼻・舌・身・意(こころ)もない、なんにもないと気づくこと。これ無生心。
もう一つ。無住心。心をどこにも置かない。気分としては、一度お前さんの頭をはずせ、ということ。
無生心・無住心が仏心仏性。
・諸法(すべての存在)が空・無我と気づくこと。
禅は相手と一つになることです。そうするために、たとえば、私がサクラの中に入ればいい。
そうすると私の我が無くなる。サクラと一つ。つまりサクラも私。
そういうやり方で宇宙を見れば、全宇宙はわたし。
サクラが満開です。あさの陽光がサクラに射し込みました。花心がキラキラ輝く。サクラは私。
これは私の輝き。というふうに考える切り口がある。
・父母未生以前。本来の面目という切り口。
芭蕉が仏頂和尚に参禅。和尚が芭蕉に尋ねます。
(どうかな?)(雨後青苔洗う)(青苔未生以前)
(かわずとびこむみずのおと)。
青苔の雨後、青が手に染まるほどの無生心−清浄。
青苔は人がつけた名前。つける前は何か。
(昔からあった真実は何か)。かわずとびこむみずのおと。
過去にドボンドボン、未来にドボンドボンの連続。
これが悟り。この道理を生活に生かす。
いつまでも悟り面(づら)するなということです。