───十 牛 図───D                 松原哲明

牧  牛

 清浄な気分を得たならば、それが損なわないように気を引き締めておきましょう。
なぜならば、ちょっとでも油断すれば、すぐにチリやホコリがついてしまうからです。
自分の行動・心の持ち具合に十分配慮しつづければ、その内にだんだん慣れてきて、いい気分は身体と心とになつくもんです。
こうなればしめたもの、もう大丈夫。そのうちに、いい気分のほうから、あなたを追いかけてきます。

 [牧牛]の原文は当然漢文です。そのまま引用してもただ難しいだけですから、意訳しておきました。本文原文がほしい人は『十牛禅図』(松原哲明著・主婦の友社。本体1400円)がお寺にあります。
 第一節は坐禅のすすめですね。身体の汚れはお風呂に入って、石けんでごしごし洗えばいい。毎日入れば毎日きれいさを保てます。
 しかし、身体だけではなくて心も汚れています。六十年生きると六十年分の心の汚れが蓄積されていますでしょう。心をわしづかみして、石けんで洗おうとしても洗えるもんじゃありません。

 山岡鐡舟は「坐禅は心の石けんだ」というようなことを言っていますが、まさにその通りです。上手に坐禅ができたら、終わって庭を見ると、すべてが光って見えます。これは心が磨かれたから、きらきら輝いて見える。

 北原白秋はこのあたりを『洗心雑話』に次のように書いています

   薔薇の木に
   薔薇の花咲く、
   なにごとの不思議なけれど。
 この私の短い詩を見て、何が面白いと云った人が居る。あたりまえだと云うのである。あたりまえには違いはないが、冬の枯れすがれた薔薇の木の小脇から、あの真紅な薔薇の花が咲きひるがえる目の前の不思議さを、ただ、あたりまえと見る事ができようか。何でも無いというのは、あまりにも霊が鈍っている。私はハッと驚いたがゆえ涙がながれた。頭が自然と下がって、この世の神心の前に掌を合せたのである、と。

 ハッと気づく。なんてきれいな、と思えるようになればしめたもの。こういう気分は逃げやすいから気をつけたい、とは、第2節の言いたいところです。
 常に白秋の気分がでれば心が澄んできます。これが第3節と第4節。白秋も私も同じ日本人、やれないわけがない。と気づいたら坐禅してみませんか。