───十 牛 図───C                 松原哲明

得  牛


 埋もれていた仏心に、今あえました。でも、仏心は境地が優れているから、油断するとまた見えなくなります。
 まだまだ私には野性が残っておりますので、自分に厳しくしないと仏心は消えてしまいます。

 私たちは、生まれながらにしてお釈迦様と同じ清らかな心を産み付けられて生まれきました。と、信じることが【禅】でした。そして本当にそうだと坐禅して体感するのが【定】でした。
 とは言うものの、なかなか信じられない。自分はこんなに心が汚れているのに、どうしてきれいなのか。まず、信じられない。
 お酒を飲み過ぎて大失敗。そんなとき大反省したりします。もう二度とあんなことしない、言わないと後悔します。それはきっときれいな心が汚い心の上にでてきたのでしょうね。
 しかし、後悔してきれいな心がでてきたとしても、時が過ぎると忘れて元の黙阿弥になる。そこのところを「仏心の方が境地がすぐれていて、きれいすぎて、私の中には住み込みにくい」と言うのです。よく妄想煩悩に占領されてしまうのは、心が汚れたがるのですね。 

 つまり、まだまだ私は野性的すぎて、きれいな心になじまないのかな。
 と言うところがCです。 
 また、次のようにもうたっています。

 仏心仏性を見ました。
 でも、私の心の眼はすぐに曇って、きらきらきれいな心を見失う。
 けれど、仏心仏性を草原で見つけたりします。
 でも、油断したらすぐに輝きがなくなりますよ。

 実は、4月の晴れた朝、観音堂の前で、驚くべき光景に出会いました。
 桜が、朝日を受けてきらきら光り輝いていたの
です。花の芯が光っていたのです。花の粒子が光を放っていたとでも言いましょうか。花の芯の極微が輝いていたとでも言いましょうか。
 いや、それだけではありません。周囲の朝露が、苔が光り輝いていたのです。言葉に表わせない輝きでした。心の状態がきっとよかったのでしょう。
しかし、そのように見えたのもそのときだけ。その後は、以前と全く変わらない庭でした。
 つまり、私の心に住み込んでくれるまで、自分に厳しくしなければいけない、と言う教えですね。