───十 牛 図───A                 松原哲明

見  跡

 水辺に牛の足跡がいっぱいかれの大好きな草のかげに牛を見たたとえ山中深くとも、牛の鼻さきをかくせようか意識を高く持てば、いつしか迷いは消えてゆく無心に生きて行けば、かならず、牛を見つけることができる。
 牛は静寂心です。一点の曇りもない心のことです。私たちが飛行機で飛び立ち、あつい雲から、一点の雲のない青い大空に出た気分の心をいいます。
 この心を『空』と呼びます。『空』とは禅では『不生』でなにも生まれない、生じない状態をいいますが、南方仏教ではそういう心を紀元前1世紀から研究していたのです。阿毘達磨発智論がまず著され、紀元100から150にかけて脇尊者が12年、500人の僧を集めて阿毘達磨大毘婆沙論を著しました。今のカシミールで、脇尊者はそのころ年老いて勉強もしておらず、村の子どもからバカにされていたのに発憤して研究にのりだしたと言われています。そして死ぬまで床に脇を着けなかったと。その規模から第四結集とよばれたりします。
 四五〇年に世親という大学者が阿毘達磨倶舎論を著して南方仏教の論部が完成しますが、これを論破しようとしたのが阿毘達磨順正論です。これらの阿毘達磨は論といういみです。そして、存在するものの中には『極微』なものがある、とします。禅で言うような『なにもない、生じるものもない』のではなく、眼に見えないものがあると。極微でもって存在が形成されるのだと。
 そのおおきさは823、543分の一。計算すると0.000001214の大きさ。湯川秀樹博士によりますと『今日の物理学で言うと素粒子』とか。ここまで科学が仏教を研究してくれてることは仏教の従事者にとって大変にうれしいことです。