───十 牛 図───@               松原哲明

   尋  牛

 さとりとは、坐禅をして自分の中に、釈尊と同じ仏心仏性があるのを感知するたとであります。仏心仏性とは、一点の汚れも生じない「不生」の仏心だと盤珪禅師は示し、一点の汚れという相もないことから経典で「無相」とも表現されています。その仏心仏性を「牛」にたとえたのが「十牛図」、中国の廊庵禅師の作で、これから十回に分けて説明しようと思います。原詩はむつかしいので、それを私なりの唄にしてみました。第一回目は仏心仏性という牛を尋ねるので左記のようになりました。

  草が茫々と生い繁っている。
  それを刈り取り牛を求めよう。
  しかし牛の前には広大な山河が横たわり
  私をさえぎって進めない。
  なんの手がかりもなく、私はもう疲れき
  ってしまった。
  ただ楓に秋の蝉が鳴くばかり。

 母から生れる前の私の心は一点の汚れも生じてないはずでした。ところが生れ落ちて成長していくうちに、その心に草という煩悩がおい茂り、本来の心が全く見えなくなったのです。
 その茫々たる草を刈りとれば仏心仏性なる牛が見つかるのでしょうが、坐禅しても妄想や煩悩ばかりが現われて、少しも前進することができないんです。
 ただ脚が痛い、コックリ/\が出て、全く手がかりもつかめません。
 そんな私をあざわらうように、ただ秋の蝉が楓で鳴いているばかり、です───と。

 坐禅なんてと思うかも知れないけれど、一度は、自分って何なのだろうと感知しておく必要があります。それがたった一度の人生の最終目的なんですよ。自分を知らないで死んでしまうなんて、まことにつまらぬ人生だと祖師方は言われてる。
 さとれなくたっていいんです。人の世の道理が判れば! 道理という細かな網の中を何回も何回もすり抜けると茫々たる草が抜ける。
 この細かな網を「坐禅」と言うのです。