慧能禅師は嶺南の出身です。嶺南というと、中国の南方、広東です。家は貧しく、少年の頃、薪を集めては売り、病弱な母を養います。ある日、いつものように薪を売っていると「応に住するところなくして、しかもその心を生ず」という言葉が耳に入りました。たずねれば、心は住所がないが、いつでもどこにでも現われるの意で、『金剛経』にある一句だそうです。それ以上は黄梅山の五祖弘忍和尚に聞くようにといい去ってゆきました。
広東から黄梅まで三千キロはありましょう。それに病弱の母をかかえています。かなわぬ夢と思っていたら、ある人が大金をくれ、それを母に渡し慧能は黄梅の五祖の住む山に行くのでした。
慧能「禅の修行に来ました」
五祖「どこからやって来たのか」
慧能「嶺南です」
五祖「嶺南のサルには禅は判るまい」
慧能「人間に差別はあっても、仏心は平等です。がんばれば悟れるはずです」
慧能は行者でした。雲水が五百人もいたので正式な出家はずっとあとでした。仕事は、米つきの担当でした。
慧能の禅者ぶりは抜群でした。ナンバーワンの神秀をしのいでおりました。五祖はそれを見ぬき六祖として扱うことをきめ、慧能を南に逃がれさせ修行させます。まだ行者であり無学の者を六祖にすれば、批難ごうごうになることが明らかです。
慧能は南方にかくれ修行し、突如広東に現われ、以後は第六祖として禅の歴史に輝かしい足跡を残したのです。
(写真は黄梅山に残る、六祖慧能(左)と行者時の石臼)
玄奘の『大唐西域記』にポータラカ山についての記述があります。「マラヤ山の東にポータラカ山がある。山道は危険で、巌谷は峻嶮である。山頂に池があり、鏡の如く澄んでいる。水は流れて大河となり、山をめぐり流れること二十周で南海に入る。」と。
西国巡礼のお礼 山本省吾
昨日夜、西国巡礼より無事戻りました。先達の行樹さんには大変お世話になりました。お陰さまで楽しい有意義な旅となりました。有り難く、感謝いたしております。
行樹さんのお人柄を思わせる出来事が今回最後の四番施福寺でありました。3日の日は朝から雨で、施福寺も朝からの雨で険しい参道は非常に歩きずらく、足には自信のあった小生も難渋致しました。参拝を終え、皆さんよりかなり遅れてお寺を出、山を下って行きますと、前方にお年寄の手を取って歩いている方が傘ごしに見えました。近づいて行くとその方は、行樹さんでした。とっさには事情が判らず、どうしたのかとそのお年寄の女性を見ますと膝がガクガクになっており、ほとんど歩けないような状態でした。雨でずぶ濡れになって全く元気をなくされておられました。最後の急勾配の手前に東屋があって、そこで休みましたが、もう歩けるような状態ではなく、おぶって行くことになりました。小生も名乗りを上げましたが、やはり一番若く体力もある行樹さんがおぶっていかれることになりました。あの急勾配の下りを全体重を預けてしまったお年寄を背に歩かれることは本当に大変なことでしたでしょう。必死で背中に抱きつくお年寄の腕が行樹さんの首を何度も絞めてしまいました。泊さんでしたでしょうか、皆が持っている竹の杖をお年寄のお尻の下に渡して両脇から支えたらと云ってくれました。早速3本の杖をお尻の下に渡し、相澤さんと小生が両脇から支えるようにいたしました。多少でも行樹さんの負担を軽く出来たでしょうか。もしそうであれば、もう少し早くに考え付けばという思いでございます。東屋からは20分以上も掛かりましたでしうか、本当に大変なことを何事もなかったようにされていらっした行樹さんには一同感激いたしました。東屋で我々の仲間の女性とお連れの女性が、そこで片付けをされていた地元の方に、下で待っているハイヤーの運転手に連絡をしてほしいと云ってくれていましたので、ハイヤーが迎えに来てくれ、そのお年寄はほんとうに安心された様子でした。
行樹さんのこの出来事が、この旅の一番の思い出になりました。この旅に参加できましたこと有り難く思っております。行樹さんありがとうございました。哲明先生ありがとうございました。
柳緑花紅
明けまして、おめでとうございます。みなさまも、ご健勝で新しい年をお迎え下さっておられることと拝察いたしております
▼寺内も老父母と私ども初老二人、そして気鋭の三人の副住職と樹々、それぞれの新春となりました。明治・大正・昭和の者には百尺竿頭更に一歩を進むエネルギーはなく、現成維持で精一杯。一方の三若者は海外・京都暮しなどを通して青春しているようです
▼十一月に念願の南インドに取材に出かけて来ました。まずエアー・スリランカでコロンボに着き、翌日トリヴァンドラムに着陸し、観世音菩薩の聖地コモリン岬に参りました。前方に広がるベンガル湾、インド洋、アラビア海に沈む夕陽は、あいにく雨女の家内の霊験あらたかで夕焼けもなし
▼西海岸から東インドに移動しても毎日必らず小雨のお迎えでした。でも、おかげさまで暑くもなく涼しい旅ができました。南インドは禅宗第一祖のダルマ大師の故郷です。ダルマ大師がベンガル湾に浮かび広東に上陸、嵩山・少林寺で坐禅して熊耳山に葬られますが、その一連の写真がたまりました。(熊耳山には近いうちにお参りしてきます)
▼また南インドのナーガルジュナコンダは龍樹のふるさと。しかしここはダムの下になっているそうです。一つの遺跡が消えることは、やはり世界遺産の消滅で歴史を追う者にとっては残念としかいえません
▼今、妙心寺の霊雲本庵にたのまれて『ブッダの生涯とそのおしえ』の執筆中。写真も私のストックの中から使いたいということで、その点では仏蹟百回以上めぐっておりますから、インドの四大聖地、シルクロードの写真は膨大にあり、それに加えて今回の取材、いいものにしたいです
▼今回も不思議なことがありました。成田を飛び立ったエア・スリランカのA300が滑走路を上空へと思ったとたん、眠っていた私はコックピットからパイロットのマイクによる大きな叫び声で目をさましたのです。機体のエンジンの出力が弱く、あたかも滑空しているようでした。危険なときには魂が身体から離れるといいますが、確かにそう。一度はパキスタンで猛毒のクサリヘビと同宿のときにも起りました
▼私の眼は高い空中にあり、A300を見下ろしています。パイロットはあせっていたと思いますよ。昇降舵が、上下にバタバタしてましたから。右に機首を曲げ、Uターンしてとなりの滑走路に着陸、スタートやり直しと感じました。飛びたった滑走路には順番待ちの機体が三機あり、そこに降りることはできません。ところがA300は芝生上を飛行しています。これじゃあ不時着です。「よし、オレの出番だ」と私の内部から声が出ました。窓に顔をぺったりつけて、かたずを飲んでいます。A300はぐんぐん高度をさげ芝生上に、と思ったら、急にエンジンにパワーがついて、芝生すれすれで上昇、難をのがれました。いろいろとあります
▼帰国してすぐに中国の安徽・湖北・湖南・江西省に点在する臨済宗の高僧の修行現場に立ってきました。今まで、ダルマ、臨済、趙州和尚の足跡や禅宗五山、ほかに空海・最澄・道元・栄西・円仁・円珍・成尋・円載など入唐・入宋地の写真も膨大に保存してありますが、霊雲本庵で別に『禅』の執筆と写真の提供を頼まれ、そこに掲せるために禅宗の三祖・四祖・五祖・六祖と、南岳慧思・懐ジョウ・馬祖道一・長沙景岑・百丈和尚の現場をとり収めました
▼これらの二冊は明年十月に上梓しますが非売品です。何とか少し確保しましょう。「一日作さざれば一日食わず」と作務の必要性をとなえた百゙山は周囲が竹の名産地でした。作務というから薪割りか草ひきと思いました。いやあ、作務は竹やぶの整理だったのですね。こういうことは現場に立たないと分からない
▼「百尺竿頭、更に歩を進めよ」と吐いたのが長沙景岑和尚。長沙市内に鹿苑寺があって三世紀の建立、そこに長沙和尚は住しました。なるほど竹が生えていました。ところで修行中?の雲水たちはケータイの音楽を聞いていました。日本では考えられません
▼衡山にのぼると福巌寺があり南岳懐ジョウの修行地。衡山自体は天台三世の慧思禅師が開山。慧思は日本書紀に、生れ変って聖徳太子になったと伝えられている方です。そのお墓にもおまいりしてきました。絶対に入れない聖地の写真も収めることができました。
▼あの辺りは禅宗の修行地が宝庫。なえかけてきた気力が、がぜん調子をあげてきました。ちょうどA300の不時着直前のように
▼さて、今年もまた、お寺のサークルにどうぞ。(哲)