兜率(とそつの)三関(さんかん) 松原哲明
「兜率(とそつ)従(じゅう)悦(えつ)という禅僧が中国におりました。兜率和尚は修行僧に三つの難問を与えて問います。
君たちが、来る日も来る日も、あたかも草 を分けながら修行し真理を求めるのは、ただ ただ、見性(けんしょう)するためである。さて、この見性 というのは、どういう意味かといえば、君の本分は何かを見極めることだ。さあ、君の本分は何か、使命は何なのか、ただちに言いな さい」
これは『碧厳録』の第四十七則に提示されている、生き方の問題です。『兜率(とそつの)三関(さんかん)』なる公案だ。我々に対する三問の第一番のテストです。
一般にテストといえば、三×五とか、三+五などの数字を扱います。いわゆる、読み書き、ソロバンです。が、数字では答えられない問題があり、それについて全く手がつけられていないのが、現代の教育でしょう。
研究、遊び、労働、余暇、いらだち、対立、嘘などといった草にうずもれて生きている私たち。ワン・アンド・オンリーの一生、もう二度と生れて来ないのに、一体、アンタ、何がやりたいの? と、問います。
第二問は「本分をつかめば、生死を脱することができるでしょう。では、あなたはどうやってこの生死を脱することができますかと。」これが第二問。
龍沢寺の山本玄峰老師のお好きな今様。
世の中は 今 よりほかはなかりけり
昨日は過ぎつ 明日は来らず
世の中は ここ よりほかはなかりけり
よそにゃゆかれず わきにゃをられず
只の人 只の人となれ……
第三問は「死んだらどこへ行くか。」これは「どう生きる」と同じ。第二問と同じ。同じく玄峰老師。
人とたばこのよしあしは
煙となりて 後にこそ知れ
六十よりは七十 七十よりは八十
八十よりは九十 九十よりは百
百よりは 死んでから 死んでからだぞ
大般若経六百巻写経勧募
禅寺でもっとも必要な経典の一つとされるのが玄奘訳の『大般若波羅蜜多経』六百巻です。しかし龍源寺には存しません。経典自体は販売されておりますけれど「印刷物ではつまらない、どなたか有志の方々と、何年かかってもよいから手書きで写経し、龍源寺に収めたい」といわれている飯沼定子女史から、その基金として五十巻分寄贈されました。
手書き浄書の場合、まず写経用の経本を求めなければなりません。そして一経巻につき、大体八千字ありますので、写経用の経本も一経巻(つまり一冊)がおよそ実費五千円必要となります。飯沼女史は「自分の代では完成を見ることがないだろうけれど、この志は娘に伝えてゆく」とまでいわれ、私としても何とか応じなければと思っています。
そこで次代につながる事業ゆえ、副住職の担当により徐々に展開することにしました。
記
一、写経して下さる方の募集。
(写経者・写経本寄進者として経典に記入します)
二、写経はしないが経本の寄進のみ。何巻でも。
(お名前を記入します)
三、詳細は検討中です。
百尺竿頭・更に一歩を進めよ 松原哲明
『無門関』第四十六則に「石霜和尚いわく、百尺竿頭いかにして歩を進めん」で始まる公案があります。が、これは石霜和尚ではなく、長沙和尚のまちがい。つづいて「百尺竿頭(頂上)にある人は悟ってはいても、まだまだ本物ではない。さらに一歩進んでこそ本物だぞ」とあります。
竿の先きは虚空、更に一歩進んだら墜落します。では、どうするのか。
臨済和尚は『臨済録』で同じようなことをいいます。「孤峰頂上にあっては進む道もないわい。十字街頭に在って向背なし」と。百尺竿頭も孤峰頂上も同じこと。さらに上は虚空で進むこともできない。なのに一歩を進めよという心は? 和尚いわく、街かどに在って、仏像の向背をはずして生きよ。つまり悟り面するな、ほとけツラするな、みんなと一緒に、飲み食え、ということです。偉くなると、紫座布団に坐り、床の間を背にして、赤膳じゃなきゃダメというのは駄目人間。さとりも捨て、さとり面もなくせと臨済和尚は解説します。
親父ヅラするのがよくいるじゃ、ありませんか。そんなことしてるから、メシが終ると家族はいなくなる、なんてこと。会社でも、偉くなったら、初心に帰れと。威張らない、怒らない、権力ぶらぬことです。
柳緑花紅
冷夏のせいもあったためか、老親ともども無事に盛夏をすごし、秋涼を迎えることができ、ありがたいことです。特に右半身マヒの母は感情の起伏もほとんどないように思われ、わがままは言うものの時折り家に戻ってはヘルパーさんとも悪い関係ではなくホッとしています
▼それにしても本当に涼しい夏でした。長男はほとんど軽井沢の坐禅堂で研修べったり。私もときどき手伝いに出かけましたけれど、東京が三十六度のときでもあちらは十七度という寒さでした。よって北軽井沢の農作物は凶作。農家の方々の悲鳴がきこえるようでした。やはり夏は暑くなくてはいけませんね
▼二男が七月、八月初旬まで一時帰国、八月六日頃から主任教授と家内とで京都見物。日本の民芸の研究教授ですが、慣れているはずの京都の猛暑にへきえきしたとのこと。運悪くその頃の関西はものすごい暑さで三十六、七度まであがったカンカン照り。おまけに、京都盆地特有の熱風で教授がダウン
▼大徳寺の本尊さまに合掌する異教徒の教授に、一体何を祈っているのですか、とたずねる家内に「この暑さを何とかして下さい」と願ったとのこと。このあと台風と地震を体験し、日本の夏を満喫して帰国されました
▼二男は日本から教授に随行して、バルト三国、ポーランドなどを経て、九月一日、ニューヨークに帰着。三男は夏休みを利用し、禅の会修了後に渡米。一週間の旅程といいますけれど、若いってすごいことですねぇ
▼ホーム・ページの威力ってすごいです。三宝会の土屋俊夫さん作成のホーム・ページは実にすばらしいと仲間たちから評判です。その影響から取材依頼が続き、日経IT、クロワッサンなどに掲載されています。NHKも龍源寺を収録、放映は別掲の通り
▼お寺の境内がまた三十余坪ほど広くなりました。もともとお寺の土地でしたが、それを買い戻しました。明治時代の建物をさら地にするのは大変でした。昔の鉄筋コンクリート建てですから。頑丈そのもので、明治人と同じく頑固そのもの。土台もしっかりしていて工事見積りをオーバーしたほどの費用が要りました
▼土台の下は、川の砂とか石が沢山出て来ました。つまり古川べりにあった龍源寺の境内の昔の様子をはかり知ることができました。ここは母の華道の名「静閑園」と名づけようと思っています。秋のお彼岸までには庭園にと考えていましたが、昔の測量図のままで境界も不明確。再測量してからの築園となります。お愉しみに
▼数年前に植えた約三十本の松の木が育ち、その林の中に本堂の屋根が見えかくれするようになりました。これは私のたっての夢でした。松は禅寺と大変関係があるのです。『臨済録』に「師、松を栽えるついで、黄檗(おうばく)問う。深山裏(り)にそこばくを栽えてなににかせん。師いわく、一つには山門のために境地となし、一つには後人のために標榜と作さん。」とあるによります
▼師とは、臨済禅師のこと。あるとき、臨済禅師が松を栽えておりました。するとそれを見た、師匠の黄檗禅師がたずねます。「こんな深い山中に松など栽えよって、一体どうするつもりだい。」「臨済禅師いわく。一つは山門のためにです。(松が栽えてあれば、みんなは禅寺だと判るからです)。もう一つは後の人たちに、ここが禅寺であるという標榜となるからです。」
▼『臨済録』に書いてあることを実行してみました。この松林の中に、「静閑園」の名を刻んだ木標を建てる予定です。揮ごうは元・妙心寺派管長の布鼓庵・倉内松堂老師によるものです
▼また、秋の禅の会・軽井沢が別記の通りに実施します。今回は素人コース。家内の手料理(予定)の秋の味覚をおたのしみください
▼今秋から初春にかけて、新刊本が三冊、上梓の予定です。今年はいろ/\とあり、筆がとれませんでした
▼上梓という字には梓がついております。なんということはない、昔は版木に白梓を用いたからとか。梓の木には大きなものが少ないので、よく似た材質の吉野桜が代用されました。(哲)