法華の行者
白隠と良寛
わが国の臨済宗中興の祖と称される白隠慧鶴禅師(はくいんえかく・1685〜1768)は、現在の表示でいえば、沼津市原に生れた。生れながら頭脳明晰であった。白隠は、7才のときに法華経の提婆達多品(だいばだったほん)を暗記し、老婆に話して聞かせたという。
出家したのが15才。そして本格的に禅に進むのは20才のときである。白隠は岐阜大垣の瑞雲寺に馬翁禅師を訪ねた。馬翁は白隠に蔵書の虫干しを命じる。白隠は仏教、儒教・道教・和歌・漢詩など膨大な書籍を見、目を閉じ「自分の志すべき道を示したまえ」といい、1冊の本を手にした。それは中国明代の禅僧・榁宏(しゅこう)の著わした『禅関策進』であった。それより、白隠は禅一途となる。
白隠は全国各地に禅修行に旅立つ。越後高田の英厳寺の性徴禅師のもとで遠山暁鐘の音を聞いて大覚悟「この3百年に、自分のように痛快に悟った者はおるまい」と自負するほどであった。が、飯山の正受庵の道鏡慧禅師、通称正受老人は白隠の悟りを言下に否定「この穴蔵坊主の愚か者」と叱り飛ばし、苦惨の修行ののち、正受老人の禅をつぎ、原の松蔭寺に移り住む。
その後、体調を崩し、各地の名医も見放す心気逆上の大病にかかるも、京都白川の山奥に住む白幽子仙人の指導による内観の法によりしばらくして完治、84年の生涯まさに獅子奮迅の活躍をした。
白隠は初め法華経に失望したことがある。余りの譬喩にへきえきとしていた。が、42才のとき、徳源寺のもとで法華経を開く。一夜読んで譬喩品に及んだ折り、庭にキリギリスの鳴く声を聞き、法華の深理を悟り、初め失望したことを恥じ、誤ってブッダを否定したことを知り、王経のゆえんを体得し、おもわず声を放って号泣したと、年譜は伝える。このときより白隠は大自在を得、仏典の理解、看経(かんきん)の眼、徹底して光を放った。白隠もまた、法華経に大きな影響を受けた。
「子供らと手毬つきつつ霞たつ長き春日を暮らしつるがも」と歌った大愚良寛禅師(1758〜1831)は一方、庶民と生きた和尚の呼び名が似合う。おだやかな禅僧だ。出雲崎の名主・桶屋山本以南の長男であったが、名主見習いが苦で、18才のときに家業を弟の由之(よしゆき)にゆずり、近くの光照寺で出家、岡山県玉島の円通寺に赴き、22才から11年間、修行、33才で印可されている。良寛は宗祖道元の正法眼蔵を看「受語というは、衆生をみるにまず慈愛の心を起こし……」に魅了され、生涯の導きとしている。
円通寺を出た良寛は、中国、九州、四国を旅したが、その途次、父の自殺を知り、越後に戻り、近くの小庵に入り、のちに国上山の五合庵に住んだ。この頃、法華讃を著わしたとされる。その薬草喩品に「法雨等疲(うるお)う三千界、始めて資(もたら)す大小草木の春とある。」法華の譬喩はただの教えではなく、生き方のテーマである。そのテーマを実践することが肝要であり、それを行った人が法華の行者だ。良寛もまた、その一人であった。
芭蕉は寺泊で「荒海や佐渡に横たふ天河」と歌った。それに和して良寛は「此の翁以前に此の翁無く」で始まる讃辞を残した。また良寛は白隠の「君看ずや双眼の色、語らざるは憂いなきに似たり」も書き残している。「花無心にして蝶を招き云々」の良寛の歌が好きだ。良寛の眠る隆泉寺の墓墳は「蝶無心にして花を尋ね」ていた。良寛は今もなお穏やかである。