関山慧玄(かんざんえげん)〔?〜1360〕
妙心寺の開山、開山慧玄禅師は信濃中野の城主、高梨美濃守高家の第二子として生れました。七歳のとき、郷里の広巌寺の月谷宗忠のもとで童役(ずんなん)、宗忠は叔父にあたります。
のち、に鎌倉の建長寺に入り、得度します。師は南浦紹明禅師(なんぽじょうみょう)、つまり大応国師でした。その頃は慧眼と称しています。
建長寺で開山の蘭渓道隆禅師の五十年法要が行なわれた折り、屈指の師家は宗峰妙超禅師ではなかろうかとの声がたまたま耳に入ります。そこで慧眼は建長寺を辞し、大徳寺に妙超をたずね参禅、はげしい修行を重ね、元徳元(1329)年に大悟、師より開山の号を受け、そのとき慧玄と改めます。
その後、岐阜県伊深(いぶか)の山中の草庵に入り、世俗を絶ち、悟ってもなお修行を積みます。悟後の修行に入ったのでした。
当時、花園法皇は妙超のもとで参禅しておりました。妙超は法皇に、自分の滅後は慧玄についてさらに修行されんことをすすめます。そこで法皇は慧玄に京にのぼるよう勅します。慧玄は都に出る気は全くなかったのですが、法皇はすでに慧玄のために、自らの離宮を禅苑とし、また妙超から禅苑を正法山妙心寺の号まで安ぜられていることを知り、やむなく法皇の勅に従うことになりました。法皇は寺中に王鳳院を建て、そこで慧玄の枯淡な禅を修めてゆきます。
妙心寺の慧玄の居室は雨もりがするほどでした。誰か器を持ってきて、雨もりするところに置くよう命じると、一人の僧が電光石火ザルを持って来たのです。
慧玄はその僧を大変ほめます。しばらくして別の僧が桶を持って来ました。慧玄はその僧を叱りつけます。
なぜか。禅は問いかけに対し、間、髪を容れずに即座に反応することを尊ぶからです。いくらよい答えでも、時間がかかれば、この間抜けと怒鳴られる。
ある僧が妙心寺に参禅にやって来ました。そして慧玄に、自分は生死事大無常迅速の一大事を明らめるために参りました、といいます。意味は、一生あっという間に死が来るというようなことでしょう。
するといいました。慧玄が這裏(しやり)に生死なしと。わしのところには生死なんてないわい、というところでしょうか。
慧玄は即座にその僧を追い出してしまいます。余程、気に食わなかったのでしょう。
延文五(1360)年12月に、慧玄は示寂の用意を整えた上で、慧玄の法を嗣いだ授翁宗弼(そうひつ)を玉鳳院のすぐ近くの風水泉とよぶ井戸のそばに呼びます。
慧玄は、かたわらの大樹によりかかりながら宗弼に遺誡(ゆいかい)を伝え、そのまま立亡(りゅうぼう)してゆくのでした。
今でも、玉鳳院には風水泉が存し、そのかたわらに立つだけで、非常な緊張をおぼえます。立亡され示寂され約650年すぎた現在でも、厳しくも枯淡な大応国師・南浦紹明、大燈国師・宗峰妙超、そして無相大師・開山慧玄の世にいう、応・灯・関の禅が、脈々と生き続けているからでしょうか。(転)