三蔵法師終焉の地にて 松原哲明
中国の長安の都から、およそ150キロほどのところに、玉華宮址があります。詳しくは銅川市玉華村の北方2キロの玉華山にあります。ここは、唐代の太宗(在位。626〜649)が、玄奘三蔵法師に訳経にあたらされたとこであり、また、玄奘が六十二年の生涯を終えた地でもあります。
私は一九七九年二月から玄奘三蔵法師の中国とインド往復の仏典を持ち帰ったルートを追跡しておりますが、終焉の地はかつて一度も訪ねたことがありせん。
今年2月に、長安を訪ねた折に、どうしても玉華宮址に立ちたく、単身たずねました。玄奘記念堂のすぐ裏山に王華寺の跡があり、急坂をのぼると、目前に大伽藍あとが広がっておりました。
玄奘あと追いの旅は、アフガニスタン全土とカシミール、チベット、ヒラヤマ山中、それにパキスタンの一部などを残すのみとなりました。
このたび玉華寺跡に立ったとき「よう、ここまで来たな!」との玄奘法師の声が間こえたような気がしました。
軽井沢・日月庵、星雲苑山開き
毎年ゴールデン・ウィークを中心にして、結集して参りましたが、
交通大混雑のため、下記の通り行ないます。お遊びに来てください。
4月20日(金)〜4月22日(日)
午後1時集合(現地)。 解散は4月22日朝食後。
費用、スケジュールなど詳しくは、3月のおひがん会。ならびに禅の会当日。

毎月18日は観音さまのご開帳日
龍源寺の如意輪観音は、江戸33所の24番、江戸東府20番札所となっている名観音さま。
毎月18日の午前10時から15時頃までお堂を開き、皆さまに親しくお参りしていただいております。
ぜひ、おでかけ下さい。(真紗子)
東大寺大仏再建
重源(1121〜1206) 松原哲明
重源ほど活躍した人物なのに、『本朝高僧伝』がわずかに記録を残すだけなのは、どうしてなのでしょうか。これをもってしてはほとんど原稿の体をなしませんので、『国史大辞典』をもとにご紹介いたしましょう。
重源の字は俊乗、京の紀氏の出身です。南無阿弥陀仏と号しました。13歳のときに五醍醐寺において出家、17歳のときに四国修行、19歳になり大峯に入り、さらに熊野・御岳・葛城に登り密教および山岳修行に明け暮れ、空海の遺跡を訪ね、四七歳のときについに海を渡り宋国に入りました。
そこで栄西と巡り会い、共に天台山に登り、翌年そろって帰国しています。天台山には空海は入っていませんので、どうやら重源は空海だけでなく、最澄の天台密教にも興味があった、広い視野の僧であったに違いありません。
その証拠といってはなんですが、重源は華厳の東大寺再建の勧進に指名されているのです。東大寺は1180年に平氏により焼き打ちされました。そこで東大寺大仏殿をはじめとする東大寺の再建のために、法然らの推挙により1181年、東大寺造営勧進職に任じられたのが61歳のときだったのです。
その翌年から焼け跡の整理に入り、全国に勧進(寄付)の旅に出ました。念仏を唱えながら。しかし思うようにははかどらず、齢、70に近い重源は任命から8年目の1189年に九条兼実に辞職を申し出ますが、後白河法皇や九条兼実らの要請で大勧進職に任じられます。
そこで、まず大仏の鋳造にあたっては、中国から鋳仏師の陳和卿(ちんわげい)を招き、ついに文治元年に大仏開眼供養を行ったのです。
次に難題なのが大仏殿の再建でした。長さ40メートルにおよぶ巨大な棟木を求め、周防国を東大寺造営材料国とし搬出することとなり、源頼朝の協力を取り付けました。そして南都にこの巨財を運ぶにあたり、まず港湾の整理や、道路を開いたりもしなければなりません。巨財が通過する国々においては、道中の安全と練工たちの無事などを祈願するため、お寺も建立したのでありました。たとえば播磨には浄土寺を、伊賀阿波荘に新大仏寺、周防国では阿弥陀寺を創建しています。このほか、宋から将来の宋版一切経を上醍醐寺や笠置寺に安置し、高野山に登っては念仏道場を開いています。
このようにして重源の後半生は、東大寺再建一筋でありました。そして建仁3(1203)年、東大寺総供養が挙行されたのであります。
重源の入寂は建水元年(1206)6月5日です。日付については諸説があります。重源86歳、入寂は東大寺においてでありました。東大寺大仏再建、大仏殿再興という、日本史上まれなる大工事を見届けて去ってゆかれまた。
柳緑花紅
本日2月14日。日本アエシステム257便にて、成田から中国の古都、西安に向けて飛行中です。搭乗機はA300、満席の機内に、お坊さんが14名、それが私どもの団体です
▼南は九州・四国、北は宮城県から、将来を背負って行くであろう新鋭の禅僧の西安(長安)歴史紀行の旅です。これらの僧たちは、将来、禅宗の布教師として禅の伝道に燃えている男たち。禅宗といいますと、宗派や出身僧堂にしばられたタテ社会ですけれど、今回はそれではなく松原学校のヨコの連中が参加してくれたことに、本当に大きな意義があります。わずか3泊4日の旅ではありますが、大いなる収穫を持ち帰ってくれるでありましょう
▼3月3日、禅の会終了後に、マンガ本『青春のセレクト』の出版記念会を、龍源寺花園会館におきまして、ささやかに行ないます。原作は私で、作画は木下謙介君という若者です。出版は創実社で、発行が妙心寺派宗務本所です
▼お寺に生まれた若者が、なやみながらも将来、自坊の後つぎになるという内容です。非売品。ウチの3人の息子の実生活の中から脚本を書いてみました。このように、無名の若者を世の中に送り出す喜びを全身で感じています
▼ウチの副住職の信樹が、別添のように第二回目の「北海道33所、観音巡礼の旅」を企画いたしました。本来ならば次男の正樹(覚樹)副住職の担当なのですけれど、アメリカに留学中ゆえ、長男が旅の先導をいたします。家内も母も同道いたします。皆々様もぜひ
▼若いって、いいですね。自分が年をとりはじめるとつくづく思います。全力を出し切り、エネルギーを使い果たす若者を見て、また、エネルギーが湧いてきます。しかし、若者なのに全力を尽くさないのがいますと、本当に腹が立つものですね
▼この旅の間に、大きな法事があります。長男は大学院の試験日の当日と重なり、どうしょうかと困り果てていたときに3男の行樹から救援の手紙が届きました。1年に10日ほどの僧堂の休息日があるけれどその間、休息日をとり、法事を自分がする、というのです。ありがたいことです
▼若者だけが頑張っていても仕方ありません。総代の北村行夫さんから再現役で働らいで疲れ切っている中年を集め「中年の会」を作り、1年に1日だけでも、近くの温泉に行きませんかとの立話がありました
▼何でも乗るタチなので早速、北村行夫氏を龍源寺「中年の会」の会長におねがいしました。第1回目の温泉1泊、中年の旅はいつ行なわれるのか、目下、検討中です。決まりましたら本紙上に発表します
▼サラリーマンの異業種交流の会も、まさしく中年の集いです。こちらも、毎月第1土曜日の禅の会の終了後に、道元禅師の『正法眼蔵随聞記』の輪読をはじめ、ようやく何年もかかって読破することになりました
▼そもそもの輪読のきっかけは、慈覚大師、円仁さまの勉強からでありました。そこで、いつかは円仁さまの行跡をたずねようと積み立て預金をしてきました。そうして旅の満額14万円がつみあがり、この3月におよそ20名でもって、中国の山西省の五台山をたずねます
▼成田から北京そして太原まで飛んで、1泊、翌日は五台山で1泊。2000メートルクラスの山に立派なホテルがいくつも立ち並んでいます。昔、円仁さまが巡礼した名刹の顕通寺で坐禅をし、その夜の夜行列車で北京に朝、着き、万里の長城などを見て翌日、JALにて帰国です
▼西安の中国人のガイドに、西安の昔の仏教について、いろいろと質問を受けました。西安に留学に来た日本僧と、その当時の寺々が知りたいというのです。そこで現地で『中国祖師巡歴の旅』という拙著をプレゼントしてきました
▼わが国には、その昔の長安の寺院に関する資料の集成本があり、目下、コピーを作り、先方に送付しようとしています。大体が、空海が日本人ではなく、中国人と思っているのですから、基本的に学びなおす必要があります
▼立正佼成会から、庭野日敬開祖の思い出話を書くようにといわれています。実は20年前、庭野さんが喜寿記念の対談相手に私を選んでくれたのでした。そのとき、私はまだ43才でした。なぜ、私が…かは、さだかではありません。でも、時間だけは、さだかにすぎてゆきました
▼梅の木が先日の大雪で1本倒れました。切るのが可哀相で。花だけは咲かせてあげようと考えています。