松原哲明
この僧ほど波乱万丈の人生を送った人も珍しいと思います。天台宗の僧で、幼いときから比叡山の最澄のもとで仏道修行しました。838年には、円仁らとともに入唐、唯一、希望通り天台山に登ることが出来たのです。ために、なかには円載が裏金を使ったのではないかなどと邪推し非難されたものでした。これについては円仁の入唐求法巡礼記にはっきり書いてあるとおり、円載は長期留学生、あとは短期留学生で遠方の天台山にゆく時間が足りなかったし、円載は天台宗の教義の疑問点を天台の高僧に提出して、それを持ち帰る使命が与えられていたからでした。教義の50に及ぶ疑問点は即座に回答できるものではなく、長期留学生の円載にのみ時間があったからでした。
そのころは天台宗では教義の解釈に疑問が生じますと唐決といいまして、天台山の高僧の指導を受けることとなっていたのです。ようやくのことで解答がでました円載はそれを携えて帰国しようとします。しかし、官民が円載の人徳に惚れ込んで帰国させてはくれなかったのでした。本朝高僧伝に、頻りに行装を留む、とありますから邪魔して帰してはくれなかったのでしょう。
円載は仕方なく、弟子の好仁に50の疑問の答釈を持たせて日本に伝えたのでした。円載の人柄に惚れ込んだのは円載周辺の人だけではありません。皇帝の宣宗までが円載の力量を並々ならぬことを見抜き、勅して首都長安の西明寺に住まわせ宮殿に召し経を講じさせています。
その後、留学僧の円珍が唐に入ります。そこで、円載と出会うものの2人はうち解けることもなく敵対します。当時、我が国で対立していたこともあったのか。円珍はひどく先輩の円載の悪口を書きました。ここは、他宗のこと故、これ以上はふれません。
さて、877年、円載は荷年に及ぶ留学ののち、船で帰国します。が、難破して溺死してしまうのでした。私は、円載は悪口を言われるような人間ではないことを信じて疑わない1人です。でも、それをはらすことはなく海の藻屑となった円載がかわいそうで、ここに紹介して、海の底から助けてあげてみたかったのですが。